だいぶ、時間が経ってしまい、すみませぬ。。。
武蔵野大学3年生の後期、設計演習(授業名:設計製図4)の第1課題の話し。この授業は、僕を含め5名の建築家の先生と一緒に運営する、スタジオ制の設計演習。水谷スタジオでは例年、第1課題ではスーパースター(ロック・アーティスト)の空間シリーズの課題を提示する。もうこれも20年目(!)に突入。非常にコンセプチャルな課題で、学生にとっては非常に難しいと思うけど、頭をグルングルンさせ普段とはまったくちがう脳味噌の使い方をして思い切り頑張って欲しい、と例年思っている。
基本的に正解(らしきものも含む)がない課題なので、学生も困惑するが、講評する教員もいつもと違う所に頭をもっていかなければいけないので、講評会はいろいろな先生方の意見が聞けて、こちらとしても面白い。だが、作品のコンセプト、及び、そこからつくられる建築(らしきもの)の相関関係の妥当性は当然のごとく求められ、建築(らしきもの)自体の面白さ、及び、作品自体のメッセージ性に圧倒的な説得力がないと、つまらない、のである。
さて、例年通り、課題全文を下記に流しますので、どうぞ。(TM)
2025年度 課題:「空間創作:『追憶のハイウェイ61』」
「「スーパースターの家」シリーズも20課題(コロナ禍で1年飛ばしたので、実働21年目)続いたことになる。もともとこの課題のオリジナルは『わがスーパースターたちのいえ』[1]というコンペの課題である。2022年までは、スパースター(アーティスト)を対象としてきたが、2023年度からアーティストの作品自体を課題の素材としている。対象作品は、『Highway 61 Revisited(追憶のハイウェイ61)』(ボブ・ディラン)(あの、『ライク・ア・ローリング・ストーンズ』収録)とする。
『追憶のハイウェイ61』は、(何と60年前!)1965年リリースの6作目。ロック史上における名盤のひとつとして挙げられる。前作(『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』)でフォークからロックのサウンドを取り入れた方向性を深め、本作で当時のディランの評価と、フォークからロックへの転換を決定づけた。当時のフォーク・ファンのアイコンであったディランのロックへの音楽性の転換、及びプロテスト・ソングからの別離は、ファンに大きなショックを与えた。このアルバム発表後の1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルに、黒い革ジャン姿でエレキ・ギターを持ってステージに立ったディランに対し、聴衆が大きな罵声を浴びせ、一旦引っ込んだ彼が再びステージに上がり、「It’s All Over Now,Baby Blue(すべては終わった)」を涙ながらに唄った、というのは、あまりに有名な話である。(このあたりは、今年2025年に日本でも公開された『名もなき者(監督:ジェームス・マンゴールド)』でも(事実との若干の改変はありながら)描かれている)。
さて、ボブ・ディランだが、過去の伝説的なアーティストではない。84歳となる現在も、トップアーティストとして活躍を続けている。『追憶のハイウェイ61』の次作『ブロンド・オン・ブロンド』で初期の絶頂期を迎え、第2のピークと呼ばれる70年代には、これまた最高傑作と評価される『血の轍』をリリース。80年代終わりからネヴァー・エンディング・ツアーをスタートし年100回のライブを現在も継続中。2016年にはノーベル文学賞を受賞。2020年代に入ってもオリジナル。アルバム(通算39作目、『ラフ&ロウディ・デイズ』)をつくりつづけている。
この課題は、『追憶のハイウェイ61』を(“音楽→建築”という世界を通して)再解釈することにより、建築的な思考や概念を再構築し、それによって創作し得る空間や建築は、どのようなかたちで表現することができるのか、時間や空間を超えた構想力豊かな新しい建築提案を期待している。
[1] 1975年の新建築の住宅設計競技の課題。『わがスーパースターのたちのいえ』。審査委員長は磯崎新。そしてその結果は。。。ほとんどが、海外の提案者が上位をしめた。磯崎はその審査評で「日本の建築教育の惨状を想う」というタイトルで、日本人提案のあまりの硬直化した状況を嘆いている。さらに相田武文が「犯されたい審査員を犯すこともできなかった応募者」という講評をおこなっている。今で言うところの「草食系」である日本人建築家の提案の惨状をみて「磯崎が新建築コンペにとどめを刺した」と評している。