2015/01/28

「イスをつくる」講評会



















 武蔵野大学で展開している「イスをつくる」授業の作品講評会を開催(授業の課題は本ブログの2014/4/22参照ください)。場所は三鷹市芸術文化センターの展示ギャラリー。
 今年度は16名が履修。なんとか無事に皆完成までこぎつけることができたのは一安心。今年は、3名の特別講師を招いての講評会開催が可能となり、木工デザイナーの渡邉浩幸さん、建築家の佐野修さん、写真家のキッチン・ミノルさんの御三方にお越し頂く。それぞれ異なる立場なので、異なる視点から批評があり、僕としてもとても面白い。司会をしているのをうっかり忘れてしまうくらいになってしまう。
 先生方からは厳しくも温かい言葉をかけて頂いたので、学生諸君はこれを励みにさらに前進してもらいたい。それにしても、作品のコンセプトやデザインの方向性はいいとして、最後の仕上がりの精度がまったく未達感満載で、これは指導する身としては悩ましいところ。来年度への宿題にすることにしよう。
 さて、講評会終了後は恒例の打上げ。学生は1年の総集編ということで大いに盛り上がる。教員も今年は3名もゲスト講師にお越し頂いたので非常に楽しく時間を過ごすことができた(写真は盛り上がる講師陣を学生がパシャリ)。先生方には長時間本当にありがとうございました。また来年度もよろしくお願いします!(TM

2015/01/21

雪の妻有

    越後妻有の視察に松代と十日町へ。
  実は冬の妻有に本格的に降りたつのははじめてのこと。今日はめずらしく晴天で、気持ちいい。とは言え、やはり寒いのは寒い。普通の街中の歩道でも2m以上の雪が積まれていて、改めて雪の世界の力に圧倒される。
  水谷研8期生のアリサが同行してくれて、松代の商店街を見て作品のイメージを膨らませる。ひとつの商店を候補にピックアップして、簡単に室内の測量をさせていただく。
  ランチを農舞台でとり、その後妻有に来たからということで、魚沼在住の水谷研2期生のベンを呼んで合流。彼も元気そうに地元で活動している様子を聞けてうれしい。妻有本番は仕事もあるので、6年前のようにはいかないかもしれないが、できるだけ協力を!ということで、妻有の地を後にする。
徐々に芸術祭に向けてのモードが高まっていく。(TM

2015/01/17

20年前の試随想

 阪神大震災から丁度20年を迎えた。
うちの実家が神戸ということもあり感慨もひとしおだ。20年という時間も流れの重みも感じるし、時の流れの早さも感じる。
当時のことを断片的だか、ポツポツと想い出してみる。ちょっと長くなるけど、記憶が薄れているところもあるので試しにブログに書いてみることにする。
地震があった当時は、僕は丁度、京都の下宿にいたので、家族は被災したが、自分自身は被災をしていない。ただ、京都も物凄く激しい揺れに見舞われた。前日の夜に法事があったため丁度神戸に帰省していた経緯があり、一瞬、その夜に神戸に帰るか京都に帰るかを迷った。ので、数時間前まで神戸にいた訳で、その時の気分によっては神戸で地震に遭遇していた確率がかなり高かった、ということになる。その夜は、京都に帰ったものの、何となく眠ることができずに鬱々としていたところ(自分が留年中だったので、ある意味、毎日そんな生活だった訳だけど)、早朝、その揺れにあった訳だ。
京都もかなり揺れたので、早朝にもかかわらず、僕の学生時代の盟友ザク君が電話をかけてきてくれて、「今、ニュース速報見てたら、震源地が淡路らしく、お前の実家の目の前やけど、大丈夫か?」と教えてくれた。慌てて、僕もテレビをつけてみたら、まだ状況はよく分からないけど、淡路が震源地なのは確からしい。
すぐさま、実家に電話。1回目は繋がらない。再度チャレンジの2回目。20コールくらいで、父親が電話に出た。「大丈夫か?」と聞くと、「大丈夫や。」と応えるが、とても大丈夫とは思えないような声の状況だ。よく聞くと、「揺れが激しくてベッドから身動きが取れない。洗面所で鏡が割れたために蛇口に当たったようで、水が出っ放しのようで止めに行きたいのだが、その2m程が動けない。」とのことだった。ただ、「一時よりは揺れが安定してきているので、大丈夫。母親も大丈夫。だから、心配するな。」ということだった。ひとしきり話した後、電話を切った訳だが、今のように携帯が普及していた時代でもないので、その後、まったく電話が繋がらなくなってしまった。結果的にはその時、声を聴けたのは、非常にラッキーだった訳だ。
このあたりの記憶が20年も経ち曖昧なのだが、数日間はこっちもどう動いていいか分からず、京都でジリジリとした生活を送っていたのだろうと思う。2日か3日後にやっと電話が通じて、実家の両親と確認がとれ、さらに数日後に、ひとまず家族への救援物資っぽいモノを持って帰ることにした。親のリクエストは、水のいらないシャンプーとうちの下宿にある3号炊きの小さな電気炊飯器だった。当時実家はガスの炊飯器しかなかったので、米が炊けなくて困っているとのことだったので。そう考えると、インフラの中では電気は比較的早く復旧したのだろう。
荷物をリュックに背負って神戸を目指した。まずは阪急で大阪くらいまではまあまあ普通に行けたような記憶がある。大阪でJRに乗り換えて、多分西宮の手前くらいまでは電車が既に動いていた。さて、そこからはバスしか移動手段がない訳で、バスを待つ人々で駅周辺は溢れかえっていて、列を並んでバスに乗れるのに35時間くらいはかかるとのこと。じっと寒い駅で待っているのも気が狂いそうだったので、神戸の西側の電車が動いている地点まで歩くことを決意。
ここから8時間程歩く訳だが衝撃の光景を目の当たりにすることになる。
おそらく地震のそのものの被害としては一番大きかったのではないかと思われる芦屋の街の崩壊している様子。神戸の中心地の三宮では街の象徴である百貨店のそごうが傾いていた。震災後の火災の被害がすさまじかった長田の街が文字通り焦土となっていた。長田を過ぎたあたりから、家が倒壊しているため道路を歩いて進むことができず、それぞれ目的地へ向かっている人々と、電車が通っていない線路を無言のままゾロゾロと西を目指して歩いている光景は言葉では言い表せない。
須磨区の板宿あたりから地下鉄が動いている、ということでやっと電車に乗って実家までたどり着くことができた。実家にたどり着いて、両親には「大変だったね。」と労わるが、母親からは「来てくれたことは大変嬉しいけど、この水も満足になく、ご飯も充分に用意できないような状況で家族が一人また増える生活は非常に大変なので,明日の朝、すぐに帰るように。」と諭された。「まあ、そうだわな。」と僕も頷くしかなかった。
神戸では震災から1週間を経たその時期でも、すごい震度の揺れが度々続いていたのを覚えている。そんなこんなで震災直後は、非常に短い滞在時間で神戸を後にした訳だが、帰りは兵庫県の西へ出て、そこから兵庫県北部をぐるっと回る経路で、京都に帰った。そのルートも本当に薄汚い格好(もちろん、僕も含めて)のすごい人の数が移動していて、何となく戦時中を彷彿とさせるような感じだった。
さて、話はまったく個人的なことに変わるが、実はその年の夏、6月くらいから僕はイタリアのトリノへ4カ月程、現地の設計事務所へ修業に出ることになっていて、実際、出国することになる。震災後半年くらいで、もう出発していた訳で、今考えると何となく「よく、そんなんできたな。(或いは行かせてくれたな。)」という感覚である。ちなみに日本では震災から夏の間にサリン事件が起こっている。95年はまさに激動の時代だった訳だ。
そして、悪いニュースがあれば、いいニュースもある。
僕はイタリアの地で、海を渡った野茂英雄がメジャーのオール・スターに先発したニュースを知る。イタリアではまったくニュースにならないが、時々日本の家族にかける電話の中で、母親がとても興奮して話していたのを鮮明に記憶がある。
そして、我が神戸ブルーウェーブ(現在のバファローズ)が11年振りに優勝をしたのもこの年。被災地をフランチャイズにするチームが優勝するなんて、本当にドラマみたいなストーリーである。実は、イタリアから帰国した前日に丁度マジック1が点灯。朝一に関空に着いた後、速効で帰宅して、その足で、母親につくってもらったおにぎりを携えて、父親と一緒に神戸グリーンスタジアムへ当日券を買いに行き、観戦をした。結果は当時ロッテにいた伊良部に完璧に抑えられて目前での胴上げはお預けになってしまったけど。
そして、野村克也監督(当時)率いるヤクルトスワローズと日本シリーズで対決。我々、神戸市民の期待を一心に集めるばかりでもなく、日本中の応援を受けての決戦だった。しかし、結果は14敗の完敗。完全に野村ID野球に抑え込まれるかたちでブルーウェーブは敗退した。最後の試合が終わった後、イチローはコメントした。
「このような不甲斐ない試合をしながら、完全に負けてしまいました。でも、こんな僕たちのプレーを、ブーイングもせずにスタンドで応援してくれる神戸のファンをもてて、僕たちは誇りに思います。」
神戸市民全員が涙した瞬間である。もちろん僕も泣いた。
さて、まったく脈絡なく長い文をになってしまったが、何はともあれ震災後20年である。20年では本当にいろいろと変化があった。冒頭にも書いたが、20年という時間も流れの重みも感じながら、時の流れの早さも感じ、次の20年に進んでいくしかないのだろうなぁ、と感じている次第であります。
さて、最後の締めに蛇足を。95年の翌年の1996年。前年度日本シリーズで敗れた神戸ブルーウェーブは、再度パ・リーグを制して日本シリーズに登場。長嶋茂雄監督(当時)率いる巨人相手に41敗で勝ち、前年の雪辱を晴らし念願の日本一に輝く。グリーンスタジアム神戸で仰木監督は宙に舞った。(TM


2015/01/05

新年2015

明けましておめでとうございます。
快晴のもと少し冷たい風を受けながら事務所スタッフと、吉祥寺の武蔵野八幡宮と事務所近くの小さな神社へ初詣。
新しい一年のスタートを切りました。
本年もどうぞよろしくお願いします。(TM)