2021/12/27

武蔵野クリーンセンター・むさし野エコreゾート

 武蔵野クリーンセンター・むさし野エコreゾートが、大きな建築関係の現地審査があり、年末かなりあわただしく過ぎていく。審査員の方々のコメントや質問をいただきながら、施設の位置づけを改めて再認識しているところである。

自分の個人的なはなしに多分になるが、このプロジェクトを10年以上携わってきて(今振り返ると、本当に長い期間だった)、建築家の職能が、ただ建物を設計して監理する、という行為だけではないということを実感している。施設の基本構想段階では、市民参加による策定においてコンサルティング・ファシリテーターの役割を果たし、基本計画策定においては、基本設計レベルの建築計画をおこない、事業者選定の際にはテクニカル・アドバイザーの役割、クリーンセンターの設計ではデザイン設計監修の役割、エコreゾートの設計では実施設計レベルの建築図を作成し、実施設計事務所と共に設計を進め、両施設の施工時は毎週定例会議に出席し施工図を工期にすべてに渡り確認。また施設運営に関しては、市民サービスの一環で施設管理者とともに、大学の研究室でさまざまな什器等のデザイン、というような様々な役割を実践した経緯がある。建物の設計だけではなく、事業のスキーム全体に建築家の役割が発揮されうる、一つの事例ではないかと思う。

建築の作品審査ということになると、作品性ということが議論になるが、その点で、武蔵野クリーンセンター・むさし野エコreゾートは、自分が設計に携わっていながら言うのも何なのだが、かなり不思議な施設である。これまでの建築は、建築造形や建築計画の斬新さ、構造デザインの技術性、環境(設備)的な技術の表現、素材の新しさ、施設や建築家自体の著名性、といったところが評価の観点となっていると思うのだが、武蔵野クリーンセンター・むさし野エコreゾートは、そこがポイントではない、と感じている。

ゴミ清掃工場という建築の機能(&それと一体に付随するプラント説部の系統やヴォリューム感)があまりに特殊であるクリーンセンター、そして既存のゴミ清掃工場の部分的保存・コンバージョンによる施設再生(これもまた同じく、残る建築の存在感が大きすぎる)という建築行為の特殊性を孕むエコreゾート(環境啓発施設=市民交流再生工場)。そして、背景にある市民参加による全市民的な想い。それらすべてが、一建築家がすべてを掌握してコントロールし、ある意味作品性を発揮することが正しい建築への処方箋とは思えないのである。

基本的なスタンスとしては、物理的・ソフト的な諸条件(この場合、建築の機能や物理的な構成やヴォリュームを含む)は、あるものとして受け止め、それに寄り添いながら、丁寧に設計行為をおこなっていくことを心掛けた。一般的には明確なコンセプトがあり、新しい技術も駆使した、作品として凝りに凝った建築が評価される傾向が多い(それが悪いという訳では決してない)が、この武蔵野クリーンセンター・むさし野エコreゾートは、ある意味手数をかけずに、プラットフォームのような場(場所)をつくることを目指している。そうすることで、この場に物理的なものばかりではない関係性をつくることが展開できるのではないかと考えている。その点が、他の建築ではあまり見られない、ある意味オルタナティブを提示できているのではないか、と僭越ながら思っている。今回の施設が、工場と旧工場のコンバージョンだったということもあり、普通に設計を進めていけば静体してしまいがちな建築空間に動きを与えていきたい、という風に考え、「道のような建築」になるように、「ミチ」と「た(溜)まり」の場を、うみだしていくことを念頭においた。クリーンセンター・エコreゾートの両施設及びそのれを結ぶ広場や建物まわりの外構も含め、さまざまなかたちで人々が集い、歩き、動き、佇み、交流する場をつくっている。個人的に設計の際に常々心掛けている、「ゆるやかな不統一の連続」ということに結果的に繋がっている、と感じている。

そして、そもそも、ここは、ごみ清掃工場なのである。開かれた、ごみ清掃工場。来館いただいた人々には、ごみが処理されていく流れを眺めながら、ここにしかない場を感じ、環境や身の回りのさまざまな事柄に思いを巡らせて(、そして、できれば何か自身の活動に展開できるきっかけづくりの場になって)もらえれば、と考えている。(TM