2016/03/31

卒業と雑感と:2015(年度)

  あっという間に時間が過ぎてしまい、ブログに何も書けていませんでした。ちょっと遅くなりましたが、武蔵野大学の水谷研のゼミ生8名が卒業。卒業式、謝恩会も無事執り行われて、ゼミ生からの素敵なプレゼントをいただく。ありがとうございます。学生諸君は改めて、おめでとう。4月からの新しい世界での活躍を期待したい。
 謝恩会では、毎年恒例のパフォーマンス(何故か毎年恒例になってしまっているかは謎なのだが。。。)を、非常勤でお世話になっている建築家の大塚聡さんと熱演。今年は若干新しい試みもおこなったので、謝恩会前日(=卒業式当日)の夜に大塚さんと西荻窪でリハーサルをおこなう(果たして学生はこの苦労が分かっているのか?(別にそこまでしなくていいんだけど、やってしまうのだなぁ。うむ。まあ、しょうがない。)と思いながら)、というおまけつき(兎にも角にも大塚先生、ありがとうございました)。歳を追うごとに中々このプログラムも体力的にきつくなってきており、さて、後、何年できるかなぁと思ってしまう。
 さて、大学では年度毎に学生の作品集(『Mu』という名前です)を制作している。その中で教員も毎年1年の総括をすることになっている。自分の担当している授業を総括するのが普通な訳ですが、僕は毎年、場違いに随想を勝手に書かせていただく。例年恒例という訳で、全文を以下に掲載します。卒業生のみなさんは懐かしさとともに、どうぞ。

2015年度 回顧・雑感 
 -SNS世代は『クリード』を映画館で観て号泣しているのか?-

 2015 年度をふり返ってということだが、実はこの文章を4年に一度しか来ない229日に書いている。そしてこれを書いている今、第88回アカデミー賞が開催されており、その結果がポツポツとラジオの中継から入ってきている。シルベスター・スタローンは本当に残菜ながら受賞を逃し、レオナルド・ディカプリオは見事受賞した模様だ。結果は厳然としてあるが、それは結果に過ぎずという話であり、『クリード』は号泣して観ざるをえない名作に違わないという事実は動かしようがない。話は翻り、最近の学生の話になるが、彼らは結果を求めすぎるんじゃないかなぁ、と思うことがある。結果から逆算をして効率良く作業をしようとしているのではないかと。。。しかし、スタローンもディカプリオも長年の紆余曲折の鍛錬があっての結果ではあるのだけど。。。
 昨年度もこの欄で書いたが、最近の学生たちはメイルをほとんどしない。ラインやツイッターといったSNS がコミュニケーションツールの大半を占めていて、もうメイルすらしないという状況のようだ。社会のコミュニケーションのあり方も変わっていっているが、僕はどうもこのSNSというのを全然しない絶滅危惧種のため何となく違和感が強烈にある。ジャズミュージシャンの菊地成孔が自著の『時事ネタ嫌い』で、「「一番安くて評価の高い店を検索するのは、非常に時間をかけておこなわれる集団的な自殺だ」というTシャツを作ろうと思っています」と言っているのは、まさに我々絶滅危惧種に向けたアンセムとしか言いようがない。
 で、このことは、おそらく設計演習やプロジェクトにおけるデザイン行為のアウトプットに通じる所があるのではないだろうか、と思ってしまう。例えば、木でつくる課題は『午前4時の256分前。深夜のラジオのスイッチをつけ。1945年から、70年を考える。そんな時に座るイス。』という(例年、そうなのだが)非常に抽象的で、はっきり言って良く分からない課題である。ただ今年度の課題の立ち位置のあり方は、はっきりとイデオロジカルナな意図をしており、その課題への答えはおそらく、分かりやすいコンセプトやそれをきれいに具現化したデザイン(造形)、ということだけでは全く不充分で、課題以上に考えさせられる内容や余白をデザインの背景に含有することが求められている。空間造形4 は僕のスタジオでは『Duran Duranのいえ』が課題だった。これは戦後70年とは対極的な80年代のある意味バブリー(決して悪い意味だけではありません)なポップアイコンの代表としてのデュランン・デュランが標榜した形態は、現在の音楽(ロック)の流れをシニカルに(或いは批判的に)捉えることができ、しかも、80年代は冷戦時代のピーク期にあったという時代背景が、文字通り背後に控えている、という意味でデュラン・デュランというある意味空っぽに見える媒体(しかもこの2015年も厳然と一線で活躍)が描いた批判性を超えていく必要があったのではないか、と思う。しかも、勿論、建築デザインを含めての話である。
 さて、この安直に見出した(と思ってる)結果というものを追いかけるということと、情報ツールへの埋没ということから、東日本大震災の際に糸井重里が「人々が憲兵になっている怖さがある。」とコラムで記していたのを思い出した。僕は正確には理解していないかもしれないが、結果から逆算するリスク(もちろんある一面の)と、その状況下で一方通行かつ集団共倒れになるリスクには相関関係があると感じることを禁じ得ない。戦後70 年の2015 年が終わり、これからはオリンピックに向かって超楽観的で一方通行な流れになる可能性も大の時代が始まる。記述の詳細は忘れてしまったが、糸井重里はそのコラムで、親鸞聖人(正確に言うとその弟子(推定))が残した最大の教えが、「歎異抄」、「異を歎く」というタイトルだ、ということにも触れている。奥が深い。文字通り3次元の世界で、学生諸君もさまざまなところに頭を巡らせて考えて欲しい。
                                             (TM)