2015/11/20

恋する演劇2015

 さて、今年もやってきました。武蔵野大学で木工演習の授業を担当していて、その授業内で毎年、何故か、演劇をおこなうことを学生に課している。なぜ、演劇をやるのか(学生にとっては、やらされるのか、ということだが)?全くもって理由はない。ので、学生はまったく意味も分からないまま、そして見ているこちらも深い意味も持たないまま、劇が執り行われる。全く学生にとっては不条理な話しな訳だが、だからなのか不思議な可笑し味があって、これがとてもいい。基本的にキャンパス周辺も含めて、大学に帰って来られる範囲で、ということなので野外に飛び出すグループも多い。
 今年度は武蔵野キャンパスに戻ってきて開催。やはり自然環境が豊かな武蔵野の方がこの企画は向いているかもしれない。この劇をおこなうという行為(あくまでド素人演技だが)の意味は、場所性ということと身体性というものと切り離せないものがあると考えている。どこで演じる場所を選ぶかという、選球眼のセンス。そして、その環境でどう自分(達)の身体がつくる、ある意味造形のようなものを表現できるか、ということだ。
毎年同じようなことを言っている訳だが、それらを体感することによる様々な意味でのコミュニケーション行為というものは、現在のネットやSNSの範囲でしか繋がらないように思える状況を打ち破るきっかけを有していると思う。そして、実際演じる行為にたどり着くまで、みんなでシナリオを考えたり、舞台セットのようなもの(小道具)を準備したりする行為が付随する訳で、このプロセスも非常にデザイン(或いは、設計)ということも含めた意味があるものだと思っている。
 今年は天候が生憎の雨だったが、全4グループ、(多分、、、)楽しんで演じているように見受けられた。この不条理な体験が将来何らの意味を持つことを祈念するばかりである。(TM)