2014/05/16

越後トリエンナーレ

 ひとつお知らせです。
 この度、「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2015」の公募プロポーザルの結果が発表され、当選の運びとなりました。『武蔵野大学 水谷俊博研究室』名義で出展作家として参加します。
http://www.echigo-tsumari.jp/news/2014/04/news_20140430_02
 まだまだ1年以上先の話ですが、6年ぶりに妻有の地にたちます。今からとても楽しみです。
 また、プロジェクトの様子は研究室のHP(学生ブログ)等でお伝えしたいと思います
 http://www.musashino-u.ac.jp/environment/design/M_lab/index.html
 ご期待ください!(TM)

2014/05/11

飛ばしていくよ




















 連休中に個人的にかなりショッキングなことがあり、まだ幾分立ち直れない感がある(いや、そんなに大したことなくて、ごくごく普通に生活していますので、心配しないでくださいね。って、しないか。。)。
 人間異常な体験をすると、現実世界との距離感がつかめないような感覚に陥るようなことを映画の世界なんかではよく観る訳だが、ほんのちょっぴり、そんな感覚が分かるような気がする。何か少しずれているような感覚。
 そんな中、ジョン・フルシアンテとデリク・ホッジ(日本盤が出ていないので、日本語表記は当て字です。。。)のニュー・アルバムが、そのズレ感を刺激してくる(ちなみに2つともかなりいい作品)。フルシアンテは、楽曲の美しいメロディ群にひずみ(不協和音のような要素)をバンバンいれて、曲自体を別のフェーズにもっていくような感じ。そして、デリク・ホッジはリズムのゆらぎで攻めまくる感じ。これは今、流行りのポリリズムなのかと思ってみるが、昔は人の手ではできなかったような技術に人間が追いついているような感じがして、コンピューターと人間の抜きつ抜かれつ感が、裏に潜んでいるようで面白い。
 この少しズレているような感覚を建築に落とし込めないかなぁ、と日々思っている。まさに、「ゆるやかな不統一の連続」感。いやはや。ので、この感覚を大切にしたいと思いながら、いざ自分自身がこの感覚にズッポリと嵌まってしまうと、なんとも居心地が。。。悪いとはいわないまでも、不思議な感じになっていてどうにかしたい気分もあり、人間は勝手なものだなぁ、と思ってみる。まあ、自分で勝手に思ってるだけなんですが。
 さて、この感覚を打破すべく、矢野顕子の『飛ばしていくよ』を日々、聴いている。リアルな感覚が蘇る。さて、飛ばしていきますよ!(TM)

2014/05/02

大阪の夜は。。。

  連休中。しかし、大学は変則的な暦で動くため、一般の休日が休日ではなく、そのためほとんど休みがない状態。いやはや、これが大変つかれますね。さて、そんな合間を何とか縫って故郷の関西へ弾丸帰省。2年半ぶりに大阪本町の行きつけの店「テヅマ」に立ち寄る。
 
 

 盟友、ウエスタン君(※2013/5/9の項参照)と小一時間、一献。関西の空気が身にしみる。
  この帰って来た感じ、というのは、建築としてデザインするとしたらどういうことなのだろうか、と妄想してみたくなる。実体験をもとにした、自己探求及び自叙的なデザインというものはありかもしれないが、それだけでは物足りない。ただ、それに客観性をもたせると、またそのエンクローズしたよさが吹き飛んでしなうのでNGだ。さて、閉じているようで閉じていないような、そんな場というか空気感のようなものができたらいいのになぁ、と思う。これは難しいなぁ。うむむむ。。。といいながら夜は更けていく。
  さて、神戸に帰れない時間になってしまい、閉店後テヅマのマスターと本町の夜の街を徘徊、というディープなおまけつき。休みなき連休に浸る大阪の夜。(TM)

2014/04/27

時の流れを思う

  かれこれ12年前に劇場の設計に携わった時にお世話になった方々が、現役引退、御結婚という、それぞれの人生の節目をお祝する会が開催され、そのお祝いの席にお呼ばれして一路、茨城へ。
  会はとても和やかに進み、それぞれのこれからのご活躍を祈念しながら、昔話にも花が咲き、とても清々しい時間を過ごす。
  それにしてももう12年とは、本当に時の流れを早く感じる。
  帰りの電車を石岡駅で待ちながら、そんな感覚が急速に加速していく。
  駅が改修のため一部解体され始めていて、非常に仮設的な駅舎の空間が顕れている。それにしてもこのアンダーコンストラクション的な空間というものは何故、こんなにも何かを人に訴えかけるものなのかと、思ってみる。
  ひとつは、その不完全さによる感覚の想起というものなのか、とも考えてみる。完全と確立されているものとは裏腹に、なにか魅力を感じるあやうさ、というようなもの。少し意味がずれていくが、廃墟の美学的な、ノスタルジアもこれに含まれるかもしれない。
  そしてもう一つは、自然体ということ。最近、この自然体という言葉(というか概念のようなもの)も個人的に考えたいとテーマにしていて、あれやこれやと悩んでいる。言い換えれば「素の姿(≒Just The Way It Is)」ということなのか、この素という状況(態)をデザインすることに魅力を感じている。デザインという行為は、デザインをスタートした瞬間から、もう作られたものになるので、デザインすればする程ドンドン素の状態から離れていく、というパラドクスを思い切りはらんでいるいる訳だが、そこを、なんとかできないものかなぁ、と日々思っている。
  さて、そんな駅に佇んでみる。休日の最終の特急の時間のため、駅には他には誰もいない。この駅を2000年代の前半に幾度となく使っていた記憶がフラッシュバックする。
  かすかに熱いものがこみあげてくる感覚があるが、何故か頭の中でマイルス・デイビスがカバーしたマイケル・ジャクソンの『ヒューマン・ネイチャー』が流れる。12年前にはマイケルはまだ健在だった。時は流れている。(TM)

2014/04/22

年度のはじめ2014

庭のチューリップも咲きだして、春の息吹に本当に身近に触れるようになってきた。大学の授業も新年度がスタートして、担当している授業で出すべき課題のリリースを続々とおこなう。その中でも木工制作の授業(通称:イス環)の課題は毎年趣向をこらしている。個人的な感想だが、近年いろいろな課題が、明快でシンプルな分かりやすいものへとなってきている傾向がみられるように感じているが、それに逆行するように毎年恒例で、訳の分からない課題を出しているのがこの授業。2014年度はこんな感じ。
 
 「1984から、30
  ダイアモンドの犬と未来世紀ブラジルと1Q84から
    21世紀とトータリタリスモとヴァン・ヘイレンを考察してみる
  そんな時に座るイス」
  ペルーの小説家、マリオ・バルガス・リョサは、あるインタビューで20世紀を全体主義の時代と位置付けて言葉をつづっていた。21世紀に入り少し時間が経過した現在、果たしてこれからの未来は、どのように位置付けられるだろうか。
  さて、1984という数字は何とも魅惑的な配列である。真っ先に思いつくのはロス五輪かもしれないし、ニキ・ラウダの3度目のワールドチャンピオンかもしれないし、小泉今日子旋風かもしれないし、そして、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』かもしれない。
  そんな1984から丁度30年の現在。
  ウクライナではクリミア問題で揺れ、台湾では学生が立法院を占拠し、マレーシア機は忽然と行方が分からなくなっている。
  そんな、今現在。いろいろなことが身の回りでも起きている。僕たちはどこに向かうのか。
  様々に考えを巡らしてみてください。魅力的なイスに出会えることを期待しています。

  これを学生は1年間考え(悩み?)、デザインから制作にあたることになる。珍しく例年より少しイデオロジカルな趣きをもってしまったが、いろいろと学生にも考えて欲しいという思いがあります。
  さて、おおよそ1年後、魅力的な作品を期待します!(TM)

2014/04/05

花見という行為に少し考える

  桜も満開となり武蔵関公園に桜を見にでかける。井の頭公園や石神井公園とは違い、こちらはこじんまりとしているので花見客でごった返すこともなく、そして花見客の年齢層も若すぎることなく静かで地味な感じがとても心地よい。

  それにしてもなぜ花見にこれだけの人が繰り出すのか、と答えのないようなどうでもいいことを少し考えてみる。もちろん、さまざまな理由が、それぞれの人々にあるのだろうけど。そこで、少し無理やり建築的な見地になって考えてみて、やはりその場所性かな、と思ってみることにする。
  別に何かの論理的な根拠がある訳はないけど直感で、「木」と「水」だと思ってみる。当たり前すぎてひっくり返りそうな答えだが。でも、人間が生きていくのに絶対必要な要素、木は空気(酸素)を生むし、水はなくては人は生きていけない訳だし、そんな「木」と「水」がある場所だからこそ、人々がワラワラと集まってくるのでなはいかなぁ。そしてその「木」のうち最もヴィジュアル的に短期間の劇的な変容をなす桜が、その集まるタイミングを猛烈に誘発しているのではないか、と。
  さて、そんな「木」と「水」があるような場所をうみだすことが、設計において大切なのではないかと、ものすごく根源的な思いに立ち返りつつ、春の年度初め、再度思いを改めつつ新年度もスタートです。(TM)

2014/04/01

フュージョンな春




 この数カ月、カニエ・ウエスト以来、最近ヒップ・ホップ系のアルバムを偶然続けざまに購入し聴いている。これは偶然なのかもしれないが、ある意味必然なのかもしれないなぁ、と少し感じている。
ちなみにそのラインナップは、

 『Black RadioRobert Glasper12両方)、『Medieval ChamberBlack Nights、『TetraC2C, Boxed OutDetroit Swindle
 何が必然なのかも、と思わせるのかというと、全て純粋なヒップホップではないということ。ロバート・スラスパーをヒップホップ系に入れてしまうのはNGかもしれないが、ジャズの立ち位置からヒップホップの要素を取り入れていると言えのではないかと思うし、デトロイト・スウィンドルはヒップホップとうよりはハウスだけどアート系?なソウルテイスト、ブラック・ナイツは純粋なヒップホップだが、プロデューサは(何と!)ジョン・フルシアンテだし、C2CはクラブDJとしてのアプローチをしていて、しかもフランス人、といった感じ。
 ひとつの枠組みにはまることなく、他分野とのコラボから生まれる感じは言葉にするとフュージョン(って、なんか80年代っぽい響き!、がするのは気のせいか。。。)という感覚。これはデザインや建築ではもう当たり前の話だが、このフュージョン的なものにさらに意味をずらせながら大きな括りをかぶせていくと面白いベクトルに進んでいくのではないか、というのが、今の僕の直感(って言うほど大袈裟なものではないけど)。例えば、デパートに美術(館)を融合させて、ゆるやかなまちづくりの範囲をスッと被せていくような、、、(っていつもの話ですみません。。。)。
そんなことを思いながら、今まであまり触れていない音楽に囲まれている今日この頃。未知の世界にも少し浸りつつ春へ向けたパワー倍増です。はい。(TM)