かれこれ12年前に劇場の設計に携わった時にお世話になった方々が、現役引退、御結婚という、それぞれの人生の節目をお祝する会が開催され、そのお祝いの席にお呼ばれして一路、茨城へ。
会はとても和やかに進み、それぞれのこれからのご活躍を祈念しながら、昔話にも花が咲き、とても清々しい時間を過ごす。
それにしてももう12年とは、本当に時の流れを早く感じる。
帰りの電車を石岡駅で待ちながら、そんな感覚が急速に加速していく。
駅が改修のため一部解体され始めていて、非常に仮設的な駅舎の空間が顕れている。それにしてもこのアンダーコンストラクション的な空間というものは何故、こんなにも何かを人に訴えかけるものなのかと、思ってみる。
ひとつは、その不完全さによる感覚の想起というものなのか、とも考えてみる。完全と確立されているものとは裏腹に、なにか魅力を感じるあやうさ、というようなもの。少し意味がずれていくが、廃墟の美学的な、ノスタルジアもこれに含まれるかもしれない。
そしてもう一つは、自然体ということ。最近、この自然体という言葉(というか概念のようなもの)も個人的に考えたいとテーマにしていて、あれやこれやと悩んでいる。言い換えれば「素の姿(≒Just The Way It Is)」ということなのか、この素という状況(態)をデザインすることに魅力を感じている。デザインという行為は、デザインをスタートした瞬間から、もう作られたものになるので、デザインすればする程ドンドン素の状態から離れていく、というパラドクスを思い切りはらんでいるいる訳だが、そこを、なんとかできないものかなぁ、と日々思っている。
さて、そんな駅に佇んでみる。休日の最終の特急の時間のため、駅には他には誰もいない。この駅を2000年代の前半に幾度となく使っていた記憶がフラッシュバックする。
かすかに熱いものがこみあげてくる感覚があるが、何故か頭の中でマイルス・デイビスがカバーしたマイケル・ジャクソンの『ヒューマン・ネイチャー』が流れる。12年前にはマイケルはまだ健在だった。時は流れている。(TM)
2014/04/22
年度のはじめ2014
庭のチューリップも咲きだして、春の息吹に本当に身近に触れるようになってきた。大学の授業も新年度がスタートして、担当している授業で出すべき課題のリリースを続々とおこなう。その中でも木工制作の授業(通称:イス環)の課題は毎年趣向をこらしている。個人的な感想だが、近年いろいろな課題が、明快でシンプルな分かりやすいものへとなってきている傾向がみられるように感じているが、それに逆行するように毎年恒例で、訳の分からない課題を出しているのがこの授業。2014年度はこんな感じ。
「1984から、30年
ダイアモンドの犬と未来世紀ブラジルと1Q84から
21世紀とトータリタリスモとヴァン・ヘイレンを考察してみる
そんな時に座るイス」
ペルーの小説家、マリオ・バルガス・リョサは、あるインタビューで20世紀を全体主義の時代と位置付けて言葉をつづっていた。21世紀に入り少し時間が経過した現在、果たしてこれからの未来は、どのように位置付けられるだろうか。
さて、1984という数字は何とも魅惑的な配列である。真っ先に思いつくのはロス五輪かもしれないし、ニキ・ラウダの3度目のワールドチャンピオンかもしれないし、小泉今日子旋風かもしれないし、そして、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』かもしれない。
そんな1984から丁度30年の現在。
ウクライナではクリミア問題で揺れ、台湾では学生が立法院を占拠し、マレーシア機は忽然と行方が分からなくなっている。
そんな、今現在。いろいろなことが身の回りでも起きている。僕たちはどこに向かうのか。
様々に考えを巡らしてみてください。魅力的なイスに出会えることを期待しています。
これを学生は1年間考え(悩み?)、デザインから制作にあたることになる。珍しく例年より少しイデオロジカルな趣きをもってしまったが、いろいろと学生にも考えて欲しいという思いがあります。
さて、おおよそ1年後、魅力的な作品を期待します!(TM)
「1984から、30年
ダイアモンドの犬と未来世紀ブラジルと1Q84から
21世紀とトータリタリスモとヴァン・ヘイレンを考察してみる
そんな時に座るイス」
ペルーの小説家、マリオ・バルガス・リョサは、あるインタビューで20世紀を全体主義の時代と位置付けて言葉をつづっていた。21世紀に入り少し時間が経過した現在、果たしてこれからの未来は、どのように位置付けられるだろうか。
さて、1984という数字は何とも魅惑的な配列である。真っ先に思いつくのはロス五輪かもしれないし、ニキ・ラウダの3度目のワールドチャンピオンかもしれないし、小泉今日子旋風かもしれないし、そして、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』かもしれない。
そんな1984から丁度30年の現在。
ウクライナではクリミア問題で揺れ、台湾では学生が立法院を占拠し、マレーシア機は忽然と行方が分からなくなっている。
そんな、今現在。いろいろなことが身の回りでも起きている。僕たちはどこに向かうのか。
様々に考えを巡らしてみてください。魅力的なイスに出会えることを期待しています。
これを学生は1年間考え(悩み?)、デザインから制作にあたることになる。珍しく例年より少しイデオロジカルな趣きをもってしまったが、いろいろと学生にも考えて欲しいという思いがあります。
さて、おおよそ1年後、魅力的な作品を期待します!(TM)
2014/04/05
花見という行為に少し考える
それにしてもなぜ花見にこれだけの人が繰り出すのか、と答えのないようなどうでもいいことを少し考えてみる。もちろん、さまざまな理由が、それぞれの人々にあるのだろうけど。そこで、少し無理やり建築的な見地になって考えてみて、やはりその場所性かな、と思ってみることにする。
別に何かの論理的な根拠がある訳はないけど直感で、「木」と「水」だと思ってみる。当たり前すぎてひっくり返りそうな答えだが。でも、人間が生きていくのに絶対必要な要素、木は空気(酸素)を生むし、水はなくては人は生きていけない訳だし、そんな「木」と「水」がある場所だからこそ、人々がワラワラと集まってくるのでなはいかなぁ。そしてその「木」のうち最もヴィジュアル的に短期間の劇的な変容をなす桜が、その集まるタイミングを猛烈に誘発しているのではないか、と。
2014/04/01
フュージョンな春
この数カ月、カニエ・ウエスト以来、最近ヒップ・ホップ系のアルバムを偶然続けざまに購入し聴いている。これは偶然なのかもしれないが、ある意味必然なのかもしれないなぁ、と少し感じている。
ちなみにそのラインナップは、
『Black Radio』Robert Glasper(1と2両方)、『Medieval Chamber』Black Nights、『Tetra』C2C, 『Boxed Out』Detroit Swindle。
何が必然なのかも、と思わせるのかというと、全て純粋なヒップホップではないということ。ロバート・スラスパーをヒップホップ系に入れてしまうのはNGかもしれないが、ジャズの立ち位置からヒップホップの要素を取り入れていると言えのではないかと思うし、デトロイト・スウィンドルはヒップホップとうよりはハウスだけどアート系?なソウルテイスト、ブラック・ナイツは純粋なヒップホップだが、プロデューサは(何と!)ジョン・フルシアンテだし、C2CはクラブDJとしてのアプローチをしていて、しかもフランス人、といった感じ。
ひとつの枠組みにはまることなく、他分野とのコラボから生まれる感じは言葉にするとフュージョン(って、なんか80年代っぽい響き!、がするのは気のせいか。。。)という感覚。これはデザインや建築ではもう当たり前の話だが、このフュージョン的なものにさらに意味をずらせながら大きな括りをかぶせていくと面白いベクトルに進んでいくのではないか、というのが、今の僕の直感(って言うほど大袈裟なものではないけど)。例えば、デパートに美術(館)を融合させて、ゆるやかなまちづくりの範囲をスッと被せていくような、、、(っていつもの話ですみません。。。)。
そんなことを思いながら、今まであまり触れていない音楽に囲まれている今日この頃。未知の世界にも少し浸りつつ春へ向けたパワー倍増です。はい。(TM)
2014/03/20
卒業と雑感と
武蔵野大学の卒業式。今年で8期生が卒業。水谷研のゼミ生8名も無事皆卒業。今年度もいろいろと盛りだくさんな1年だった。
今年は式の会場が有明コロシアムになり、壮大な会になった。学生諸君は改めて、おめでとう。
大学では年度毎に学生の作品集(『Mu』という名前です)を制作している。その中で教員も毎年1年の総括をすることになっている。自分の担当している授業を総括するのが普通な訳ですが、僕は場違いに随想を勝手に書かせていただく。今年度分が間もなく上がってくるので、例年恒例という訳で、全文を以下に掲載します。卒業生のみなさんは懐かしさとともに、どうぞ。
■『2013年度 回顧・雑感 ー設計演習とか、木でつくるとか、、、』
2013年の11月に、ビリー・ジョー・アームストロングとノラ・ジョーンズという超異色デュオが『foreverly』というアルバムをリリースした。異色というのは、まずはパンク・バンド(グリーン・デイ)のフロントマンとジャズ(って言っていいのか?は微妙だが)シンガーソングライターの世界を代表するトップランナー2人の取り合わせ、という意外性があるのだが、アルバムの内容自体もエヴァリー・ブラザースの『Songs Our Daddy Taught Us』の楽曲を丸々カバーしたというものだった。しかもこの『Songs Our Daddy Taught Us』自体がカントリー&フォークのカバー集なのである。ちょっと複雑だが、カントリー&フォークの楽曲群をカントリー・グループがカバーしたものを、パンクとジャズの異色デュオが更にカバーした、ということになっている。で、僕はこういうのが好きである。
小説家の保坂和志氏が、雑誌『みすず』(2013年11月号)の連載で、メタフィクションに関する論考をしていて、その中でこのメタフィクション的なものを否定しながら、「小説を書くというのは個人的な作業だ、あるいはバンドの演奏のような共同作業でも同じだが、発話するその人の実感は、相手に伝わる/伝わらないに関係なく個人的な言葉にして、相手はそれを受け止めるしかない、もしどうしても相手がそれを受け止められない場合、その人との共同作業は成り立たない。小説を書くということは作者である自分がその小説に影響を受けるということだ、影響を受けるというより書いた分だけ作者である自分は別の場所に連れていかれる。その意味で作者も(作者こそ)小説の登場人物=作品内人物の一員なのだ。」と述べている。
さて、最初の話に戻るが、アルバム『foreverly』は、音楽評論家の大鷹俊一氏によると、ビリー・ジョーにとっては『American Idiot』以来、彼本人が向かい合い続ける内なるアメリカン・ルーツとそこから生まれる音風景の検証作業(葛藤)の一つと位置付けられる。そう考えると、それは、決して、上述の前提状況が非常に複層的であるから面白いという訳ではなく(この前提状況も確かに充分面白い訳だが。。)、カバーと言う行為自体がある意味メタフィクション的ということを仮定すると(オリジナルとして書かれたこと(A)に対して、外に(客観的に)立つカバーとして唄う客体(B)が表れており、Aに対してBの意識的な操作が介在しているという仮定を可とすると)、そのある意味メタフィクショナルな状況の中で、主題は私的な内省的な要因を含んで、しかもオーソドックスでオーセンティックなものに対して「ひっかかり(葛藤)」≒「居心地の悪いもの」(いい意味でのです。もちろん。)な響きを広範囲に(全世界に)広げている、という点が面白い、と、思うのである。
それはおそらく設計演習(卒業設計、空間造形を含む)や環境プロジェクト(木でつくる)におけるデザイン行為に通じる所があるのではないだろうか。例えば、木でつくる課題は『色彩を持ちあぐねている君と、彼、或いは彼女の逡巡の都市、、、を見つける、そんな時に座るイス』という非常に抽象的な課題だった。その課題への答えはおそらく、分かりやすいコンセプトやきれいに納まったデザイン(造形)、ということだけでは不充分ということになるだろう。空間造形4は僕のスタジオでは「The Beatlesのいえ」が課題だった。学生作品は非常に内向的なものばかりで、それはそれで間違ったことをしている訳ではないのでが、ビートルズのもつ祝祭性やそれこそグローバルな側面というものをあまりにニグレクトし過ぎているのではないか、と思わされた。自分自身が作品によってどこまで推進して(されて)いくのか、、、ということを、どう考えたのだろうか?、ということを学生のみなさんには再度考えてみて欲しい。
さて、(建築)デザインというものには正解はない。どう考えるかは学生の皆さんの内にあるのである。どうすればいいのか。それを探して続けていくしかないのです。おそらく。
『オドルンダヨ オンガクノ ツヅクカギ Going To A GO-GO!!』
(TM)
今年は式の会場が有明コロシアムになり、壮大な会になった。学生諸君は改めて、おめでとう。
大学では年度毎に学生の作品集(『Mu』という名前です)を制作している。その中で教員も毎年1年の総括をすることになっている。自分の担当している授業を総括するのが普通な訳ですが、僕は場違いに随想を勝手に書かせていただく。今年度分が間もなく上がってくるので、例年恒例という訳で、全文を以下に掲載します。卒業生のみなさんは懐かしさとともに、どうぞ。
■『2013年度 回顧・雑感 ー設計演習とか、木でつくるとか、、、』
小説家の保坂和志氏が、雑誌『みすず』(2013年11月号)の連載で、メタフィクションに関する論考をしていて、その中でこのメタフィクション的なものを否定しながら、「小説を書くというのは個人的な作業だ、あるいはバンドの演奏のような共同作業でも同じだが、発話するその人の実感は、相手に伝わる/伝わらないに関係なく個人的な言葉にして、相手はそれを受け止めるしかない、もしどうしても相手がそれを受け止められない場合、その人との共同作業は成り立たない。小説を書くということは作者である自分がその小説に影響を受けるということだ、影響を受けるというより書いた分だけ作者である自分は別の場所に連れていかれる。その意味で作者も(作者こそ)小説の登場人物=作品内人物の一員なのだ。」と述べている。
さて、最初の話に戻るが、アルバム『foreverly』は、音楽評論家の大鷹俊一氏によると、ビリー・ジョーにとっては『American Idiot』以来、彼本人が向かい合い続ける内なるアメリカン・ルーツとそこから生まれる音風景の検証作業(葛藤)の一つと位置付けられる。そう考えると、それは、決して、上述の前提状況が非常に複層的であるから面白いという訳ではなく(この前提状況も確かに充分面白い訳だが。。)、カバーと言う行為自体がある意味メタフィクション的ということを仮定すると(オリジナルとして書かれたこと(A)に対して、外に(客観的に)立つカバーとして唄う客体(B)が表れており、Aに対してBの意識的な操作が介在しているという仮定を可とすると)、そのある意味メタフィクショナルな状況の中で、主題は私的な内省的な要因を含んで、しかもオーソドックスでオーセンティックなものに対して「ひっかかり(葛藤)」≒「居心地の悪いもの」(いい意味でのです。もちろん。)な響きを広範囲に(全世界に)広げている、という点が面白い、と、思うのである。
それはおそらく設計演習(卒業設計、空間造形を含む)や環境プロジェクト(木でつくる)におけるデザイン行為に通じる所があるのではないだろうか。例えば、木でつくる課題は『色彩を持ちあぐねている君と、彼、或いは彼女の逡巡の都市、、、を見つける、そんな時に座るイス』という非常に抽象的な課題だった。その課題への答えはおそらく、分かりやすいコンセプトやきれいに納まったデザイン(造形)、ということだけでは不充分ということになるだろう。空間造形4は僕のスタジオでは「The Beatlesのいえ」が課題だった。学生作品は非常に内向的なものばかりで、それはそれで間違ったことをしている訳ではないのでが、ビートルズのもつ祝祭性やそれこそグローバルな側面というものをあまりにニグレクトし過ぎているのではないか、と思わされた。自分自身が作品によってどこまで推進して(されて)いくのか、、、ということを、どう考えたのだろうか?、ということを学生のみなさんには再度考えてみて欲しい。
さて、(建築)デザインというものには正解はない。どう考えるかは学生の皆さんの内にあるのである。どうすればいいのか。それを探して続けていくしかないのです。おそらく。
『オドルンダヨ オンガクノ ツヅクカギ Going To A GO-GO!!』
(TM)
2014/03/19
音楽堂
たまたま高崎で新幹線の乗り継ぎの時間がかなり空いたので群馬音楽センターを観に行く。高崎に何度も足を運んでいるのに、いつも乗り継ぎだけだったので、観に行ったことがなかった。言わずとしれたアントニオ・レーモンドの代表作であり、日本のモダニズム建築の中でも非常に意味のある建築と目されている。
イベント開催がない日だったので、運よくホール内部も見ることができる。文句なく圧巻だ。そして文字通り骨太で力強い。竣工後50年以上経っているので現在の音楽ホールとしては使い勝手上難しい時もあるだろうが、とても綺麗に施設が利用されている様子が窺えて落ち着く。なぜこのような(ある意味、力強すぎる)建築を人々が愛するのか、という素朴な疑問を感じてしまう。非常に浅はかかもしれないが、やはりそこには「カタチ」というものが厳然として立ち現われているからだと思ってしまう。それを脱却しようとして、建築のプログラムやシステムやコンセプト等々に、僕たちは考えの糸口を見出そうとしたりしてみる訳だが、やはり「カタチ」というものを改めて大切に考えてみないといけないんではないかなぁ、と思ってしまう。まあ、当たり前の話といえば当たり前なんですけどね。
14年程前に茨城県小美玉市の劇場の設計に携わった際、ホールの内部空間をスタディした時に、真っ先に描いたスケッチがこのレーモンドに本当にそっくりだったことを想い出しして、ツナガッテル感が湧いてくる。時は流れているが、建築の「カタチ」はまだそこにある。
(TM)
イベント開催がない日だったので、運よくホール内部も見ることができる。文句なく圧巻だ。そして文字通り骨太で力強い。竣工後50年以上経っているので現在の音楽ホールとしては使い勝手上難しい時もあるだろうが、とても綺麗に施設が利用されている様子が窺えて落ち着く。なぜこのような(ある意味、力強すぎる)建築を人々が愛するのか、という素朴な疑問を感じてしまう。非常に浅はかかもしれないが、やはりそこには「カタチ」というものが厳然として立ち現われているからだと思ってしまう。それを脱却しようとして、建築のプログラムやシステムやコンセプト等々に、僕たちは考えの糸口を見出そうとしたりしてみる訳だが、やはり「カタチ」というものを改めて大切に考えてみないといけないんではないかなぁ、と思ってしまう。まあ、当たり前の話といえば当たり前なんですけどね。
2014/03/12
今西家住宅
学生の奈良建築研修旅行にスポット参加をする。奈良には何回か行っているが今井町まで行くのは初めて。
今西家住宅は17世紀中頃(江戸時代初期)の町屋住宅の構造様式などを残す遺構で、とても興味深い。最大の見どころは内部の土間空間。非常に大きな空間に屋根の小屋組の架構が露わしで懸かっており、その構造体が見せる空間全体のテイストは圧倒的で、またヒューマンスケールな居室部分との空間の対比が、より空間の魅力をひきたたせている。
ある意味非常に大きなスケール感というものは、建築の世界では批判されやすいところだが、ある劇(的)性を有すると体感する者にとっては何にも代えがたい空間として立ちあがってくる。これはこの住宅が地域全体の要塞のような機能を果たしていたことや、この場が当時はお白州の場であったという空間が持つプログラム自体がもつ劇性というのもあるだろうし、それらを背景に屋根架構造を含めた大きなスケールの空間と小さな居住空間を舞台背景にしながらその場で展開される人々のアクティビティ等のドラマツルギーを感じることができるからなのではないか、と思ってみる。
これも骨太のデザインなのだなぁ、と漠然と感じながら、空間を満喫する。やはり奈良は奥深い。(TM)
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