2014/04/27

時の流れを思う

  かれこれ12年前に劇場の設計に携わった時にお世話になった方々が、現役引退、御結婚という、それぞれの人生の節目をお祝する会が開催され、そのお祝いの席にお呼ばれして一路、茨城へ。
  会はとても和やかに進み、それぞれのこれからのご活躍を祈念しながら、昔話にも花が咲き、とても清々しい時間を過ごす。
  それにしてももう12年とは、本当に時の流れを早く感じる。
  帰りの電車を石岡駅で待ちながら、そんな感覚が急速に加速していく。
  駅が改修のため一部解体され始めていて、非常に仮設的な駅舎の空間が顕れている。それにしてもこのアンダーコンストラクション的な空間というものは何故、こんなにも何かを人に訴えかけるものなのかと、思ってみる。
  ひとつは、その不完全さによる感覚の想起というものなのか、とも考えてみる。完全と確立されているものとは裏腹に、なにか魅力を感じるあやうさ、というようなもの。少し意味がずれていくが、廃墟の美学的な、ノスタルジアもこれに含まれるかもしれない。
  そしてもう一つは、自然体ということ。最近、この自然体という言葉(というか概念のようなもの)も個人的に考えたいとテーマにしていて、あれやこれやと悩んでいる。言い換えれば「素の姿(≒Just The Way It Is)」ということなのか、この素という状況(態)をデザインすることに魅力を感じている。デザインという行為は、デザインをスタートした瞬間から、もう作られたものになるので、デザインすればする程ドンドン素の状態から離れていく、というパラドクスを思い切りはらんでいるいる訳だが、そこを、なんとかできないものかなぁ、と日々思っている。
  さて、そんな駅に佇んでみる。休日の最終の特急の時間のため、駅には他には誰もいない。この駅を2000年代の前半に幾度となく使っていた記憶がフラッシュバックする。
  かすかに熱いものがこみあげてくる感覚があるが、何故か頭の中でマイルス・デイビスがカバーしたマイケル・ジャクソンの『ヒューマン・ネイチャー』が流れる。12年前にはマイケルはまだ健在だった。時は流れている。(TM)