2014/04/05

花見という行為に少し考える

  桜も満開となり武蔵関公園に桜を見にでかける。井の頭公園や石神井公園とは違い、こちらはこじんまりとしているので花見客でごった返すこともなく、そして花見客の年齢層も若すぎることなく静かで地味な感じがとても心地よい。

  それにしてもなぜ花見にこれだけの人が繰り出すのか、と答えのないようなどうでもいいことを少し考えてみる。もちろん、さまざまな理由が、それぞれの人々にあるのだろうけど。そこで、少し無理やり建築的な見地になって考えてみて、やはりその場所性かな、と思ってみることにする。
  別に何かの論理的な根拠がある訳はないけど直感で、「木」と「水」だと思ってみる。当たり前すぎてひっくり返りそうな答えだが。でも、人間が生きていくのに絶対必要な要素、木は空気(酸素)を生むし、水はなくては人は生きていけない訳だし、そんな「木」と「水」がある場所だからこそ、人々がワラワラと集まってくるのでなはいかなぁ。そしてその「木」のうち最もヴィジュアル的に短期間の劇的な変容をなす桜が、その集まるタイミングを猛烈に誘発しているのではないか、と。
  さて、そんな「木」と「水」があるような場所をうみだすことが、設計において大切なのではないかと、ものすごく根源的な思いに立ち返りつつ、春の年度初め、再度思いを改めつつ新年度もスタートです。(TM)