今年は式の会場が有明コロシアムになり、壮大な会になった。学生諸君は改めて、おめでとう。
大学では年度毎に学生の作品集(『Mu』という名前です)を制作している。その中で教員も毎年1年の総括をすることになっている。自分の担当している授業を総括するのが普通な訳ですが、僕は場違いに随想を勝手に書かせていただく。今年度分が間もなく上がってくるので、例年恒例という訳で、全文を以下に掲載します。卒業生のみなさんは懐かしさとともに、どうぞ。
■『2013年度 回顧・雑感 ー設計演習とか、木でつくるとか、、、』
小説家の保坂和志氏が、雑誌『みすず』(2013年11月号)の連載で、メタフィクションに関する論考をしていて、その中でこのメタフィクション的なものを否定しながら、「小説を書くというのは個人的な作業だ、あるいはバンドの演奏のような共同作業でも同じだが、発話するその人の実感は、相手に伝わる/伝わらないに関係なく個人的な言葉にして、相手はそれを受け止めるしかない、もしどうしても相手がそれを受け止められない場合、その人との共同作業は成り立たない。小説を書くということは作者である自分がその小説に影響を受けるということだ、影響を受けるというより書いた分だけ作者である自分は別の場所に連れていかれる。その意味で作者も(作者こそ)小説の登場人物=作品内人物の一員なのだ。」と述べている。
さて、最初の話に戻るが、アルバム『foreverly』は、音楽評論家の大鷹俊一氏によると、ビリー・ジョーにとっては『American Idiot』以来、彼本人が向かい合い続ける内なるアメリカン・ルーツとそこから生まれる音風景の検証作業(葛藤)の一つと位置付けられる。そう考えると、それは、決して、上述の前提状況が非常に複層的であるから面白いという訳ではなく(この前提状況も確かに充分面白い訳だが。。)、カバーと言う行為自体がある意味メタフィクション的ということを仮定すると(オリジナルとして書かれたこと(A)に対して、外に(客観的に)立つカバーとして唄う客体(B)が表れており、Aに対してBの意識的な操作が介在しているという仮定を可とすると)、そのある意味メタフィクショナルな状況の中で、主題は私的な内省的な要因を含んで、しかもオーソドックスでオーセンティックなものに対して「ひっかかり(葛藤)」≒「居心地の悪いもの」(いい意味でのです。もちろん。)な響きを広範囲に(全世界に)広げている、という点が面白い、と、思うのである。
それはおそらく設計演習(卒業設計、空間造形を含む)や環境プロジェクト(木でつくる)におけるデザイン行為に通じる所があるのではないだろうか。例えば、木でつくる課題は『色彩を持ちあぐねている君と、彼、或いは彼女の逡巡の都市、、、を見つける、そんな時に座るイス』という非常に抽象的な課題だった。その課題への答えはおそらく、分かりやすいコンセプトやきれいに納まったデザイン(造形)、ということだけでは不充分ということになるだろう。空間造形4は僕のスタジオでは「The Beatlesのいえ」が課題だった。学生作品は非常に内向的なものばかりで、それはそれで間違ったことをしている訳ではないのでが、ビートルズのもつ祝祭性やそれこそグローバルな側面というものをあまりにニグレクトし過ぎているのではないか、と思わされた。自分自身が作品によってどこまで推進して(されて)いくのか、、、ということを、どう考えたのだろうか?、ということを学生のみなさんには再度考えてみて欲しい。
さて、(建築)デザインというものには正解はない。どう考えるかは学生の皆さんの内にあるのである。どうすればいいのか。それを探して続けていくしかないのです。おそらく。
『オドルンダヨ オンガクノ ツヅクカギ Going To A GO-GO!!』
(TM)