2015/08/19

甲子園随想

  夏も真っ盛りで、今年の高校野球も佳境を迎えている。
  祖父母が甲子園に住んでいたこともあり、幼少の頃は春夏とも祖父母の家に一週間くらいずっとお世話になりながら、高校野球をずっと観ていた。あまり知られていないが、高校野球は外野席がタダで観られるので、子供のころは暇さえあればずっと球場に通っていた。
 その祖母も今では甲子園を越して、高齢のため施設に入ってしまったが、この夏子供たちを連れて面会にいった。祖母はもう我々のことがあまり分からなくなってしまっているが、親子4世代間の交流をみながら感じ入ることもある。さて、そんなこんなで少し想い出話しを。
 甲子園での高校野球も数々の名試合を球場で生で観戦したが、はじめて甲子園に足を踏み入れたのは1977年の夏の大会。しかも決勝戦。母親に連れられて行った想い出がある。小学校に入ったばかりの僕は非常におとなしい子(言いかえればガッツがない子)で、親が心配して、我が子に「何か熱いものに触れて欲しい!」という思いやりがあったようだ。母の実家が甲子園だったので、それなら高校野球を観に行こうとなった。
 対戦カードは奇しくも、地元兵庫代表の東洋大姫路と元祖甲子園アイドルである“バンビ坂本(って、もう誰も知らないかなぁ。)”がエースの愛知代表の東邦の組み合わせ。何せ地元優勝の可能性とアイドル投手との対戦というダブルでの盛り上がりということもあり、球場は超々満員。記憶が定かでないが、試合の本当に終盤に球場に着いたようで、ライトスタンドはもう人が下の通路まで溢れかえっていて、観客席まではとても上がれるような状況でなかった。もちろん外野フェンスの高い壁がそびえているため試合の様子が観れる訳もなく、母からは「もう、観れないから、帰ろうか。。。」と言われた。試合が観れない事実を知った僕は、もう強烈に大泣きしてしまい、母はとても困り途方にくれてしまったが、小さい子が泣いてる様子をあまりに可哀そうに思ったのか、外野席の最前列にいた、あるオジさんが、何と、「僕!こっちおいで!!」と客席から手を伸ばしてくれた。甲子園球場は、外野下の通路から高さ2mくらいの壁がある上から客席がはじまるのだが、そこで僕が取った行動は、その2mくらいの壁をよじ登ろうとしたのだった。周りの人が助けてくれて、そのオジサンの伸ばす手につかまり、オジサンが客席まで文字通り2mくらい上にずずーっと引き上げてくれた。そして、そこでやっと球場の様子を一望することができた。その見ず知らずのオジサンには感謝である。本当にいい時代だったなぁ、と思う。そして、初めて生で観る球場の様子は外野の芝が緑にキラキラと輝きとても美しかったのを覚えている。
 試合はとても緊迫した展開で9回でも決着がつかず、延長戦に突入しており、10回裏の東洋大姫路の攻撃。2死ながら塁上にはランナーが二人。まわりは地元の優勝を祈る大応援が轟いている。そんな中、4番バッターが打席に立った。球場が大きく揺らぐような感覚の中、バッターが打った打球が快音を残して、大きな弧を描き本当に目の前のライトのラッキーゾーンへ飛んできた。何と、優勝を決めるサヨナラ・ホームラン。球場は大興奮で大混乱状態。僕は降り注ぐ紙吹雪をかぶっていた帽子に集めながら、それをまた撒き散らしていた。ふと下を見下ろしてみると、下の通路で母親がまぶしそうに、こっちを見ている様子が印象的だった。母が見守る中、紙吹雪が乱れ飛ぶのが、何故か季節はずれの桜の花びらが散ってるような錯覚をしてしまい、とても幻想的な景色だった。これが僕と甲子園の出会いである。
 さて、このホームラン。決勝でのサヨナラホームランは史上初だったと記憶している(そして、その後もないんじゃないかな?)。しかも75年、76年も決勝戦はサヨナラで決まったため、この試合が3年連続のサヨナラでの優勝が決まった試合となった。この体験に非常に感動してしまった(これで感動しなければアホでしょ)僕は、次の年は両親に頼んで、ちゃんと内野席のチケットを買って決勝戦を観にいくことになる。そして次の年、78年の決勝は、「2度あることは3度あると言うけど、4度目はないよね。」と言っていたことが、それに反して現実になることを目の当たりにするのである。まさに奇跡は続く。

さて、そのお話は、また来年のこの季節にでもしましょうか。(TM)