その年度末のまとめの一環だが、大学では年度毎に学生の作品集を制作しており、今年度も巻頭あいさつのテキストを書くことになった。
ちょっとフライング気味ですが、2018年度を振り返るということで、全文を以下に掲載させていただきます。
(このブログで書いた内容を一部盛り込んでいます。)
さて、いよいよ来年度へ向けて始動しだす。 (TM)
■2018年度学科作品集 はじめに
2018年度(今年度)の『卒業設計・卒業制作・卒業論文集』も無事に完成しましたのでここにお届けします。工学部建築デザイン学科の作品集としては記念すべき第1号になりますので、無事に発行できたことに感謝するとともに、学生諸君にも「おめでとう」という言葉を贈りたいと思います。
と、おめでたい感覚に浸ってしまいながらも、特に卒業していく学生諸君にはこれから社会の荒波に揉まれていく訳です。そこで、少し一緒に考えてみたいことがあるので、ここに記したいと思います。卒業設計の最後の公開審査会で、ある審査委員の先生が「テクニックに走っていて、泥臭くやっていく武蔵野大学生らしさが無くなっているように感じるのが残念。」、というコメントがあり、自分も何となく物足りなさを感じていたので、それが心にひっかかっています。
それを、自分なりに考えたところ、作品が発する余白(のようなもの)というものが、無くなっているのでは、と思いました。その作品の持つ余白(のようなもの)というものは、しっかりと作者(設計者を含む)がデザインの答えを持って初めて提示できる(逆に言うと、その答えを持ってないとダメということ)と思っているのですが、プレゼンの仕方によっては、それは観る側や感じる側に委ねられることがあります。そして、それがある強度を持ってできていて、作品自体の出来がよければ、成果物としての妥当性はそれ程重要ではなくなってしまう、と思うのです(まあ、それが良いか悪いかは、ちょっと微妙なところがあるのですが、その話をしだすと長くなるのでここでは割愛します)。で、そう考えたところ、余白(のようなもの)が無くなってきているのは、それこそ、泥臭く自分の作品(論文も含む)に対峙(或いは格闘)していないのではないか、ということを感じずにはいられません。学生諸君、どうでしょうか?
さて、ここでひとつトピックを紹介したいと思います。先日、宴席でのある学生との会話で、「今の日本の首相(あえて名前は記しません)をどう思う?」と何気なく聞いたところ、「えー、と何か新しいことしようとしてる人ですよねぇ。。」という答えに、ひっくり返ってしまった、という表現では済まないくらいくらいに、すさまじい衝撃を受けてしまいました。果たして「新しいこととは、、、消費税増税のことなのか、、はたまた憲法改正のことなのか。。。」と悩みながらも、「この会話に余白らしきものは無いわな。。」と呟く(ツイートのことではない、念のため)自分がいました。
きちんと物事を捉えて考えて欲しい、そして泥臭くそれに対峙して欲しいと思います。まさに「優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。」(『騎士団長殺し』村上春樹著、より)と感じ入りながら、卒業生みなさんの今後のご活躍を期待しています。 (TM)