例年そうだが、年度末なので様々な授業の講評会、発表会、審査会がおこなわれる。武蔵野大学で椅子をつくる授業をやっていて、その講評会を開催。今年度もゲスト講評者を招いての講評会を何とか無事に開催の運びに。木工作家の渡邊浩幸さん、映像ディレクターの土居京子さん、現代舞踏家の相原朋枝さん、写真家のキッチンミノルさんにお越し頂き、それぞれの多様な視点から講評を頂く。僕以外はみなさん建築とは違った分野の方々なので、その講評も個人的にはとても楽しい。
今年度は履修者18名で、それぞれ特徴のあるデザインの椅子ができあがった。今回の講評会を進めながら漠然と感じたことは、プレゼンがしっかりとしていると、作品の良さが確実に伝わる、というあまりに当たり前のことが当たり前すぎて、それが面白い、ということであった。
昨年のこの会のコメントでも書いたような記憶があるが、作品が発する余白(のようなもの)というものの大切さを改めて感じさせられる。その作品の持つ余白(のようなもの)というものは、しっかりと作者がデザインの答えを持って初めて提示できる(逆に言うと、その答えを持ってないとダメということ)のであるが、プレゼンの仕方によっては、それは観る側や感じる側に委ねてしまえるやり方があるのだなぁ、と思った。そして、それがある強度を持ってできていて、作品自体の出来がよければ、椅子(成果物)としての妥当性はそれ程重要ではなくなってしまうのである。まあ、それが良いか悪いかは、ちょっと微妙なところなんだけどね。最後に個人的には、「課題の奥の意味(僕が考えているポイント)と、その課題に対するスタンスの在り方は、しっかりと各自が考えて欲しい。というか、そこを考えてないとダメだよねぇ。」ということを総括で講評させてもらう。
終わった後は、履修学生全員を交えて30名程で井の頭公園の店で打ち上げ。1年の集大成ということで、学生は一様に充実感を漂わせてくれていて嬉しい。さて、怒涛の年度末が続いていくのです。はい。 (TM)
「イスをつくる」
課題:「 優れた音楽を聴くには、
聴くべき様式というものがある
聴くべき姿勢というものがある
アルバムをターンテーブルに載せて
そんな時に座るイス」
【課題概要】
国有地を一民間団体に格安で払い下げる、という超異例中の異例(異常中の異常)の事態に端を発した事実の連鎖が世間を賑わす。一国の元首の妻(或いはその元首自身に関しても取り沙汰されている)とその民間団体の密接な関係。民間団体の異常な極右教育。中央官庁による公文書改竄。そして、国会前でのデモ。それでも変わらない国会における議員答弁。そしてフェイク・ニュースを含め惑わすメディアの報道。これは一つの事例に過ぎないのだろう。然るべき問題に、然るべき提案をしても、誰からも感謝されない、ということはままある。場合によっては叱責される。だから、みんな黙っている。だから黙って破局の到来を待っている。
ので、いいのだろうか?
村上春樹著『騎士団長殺し』(2017年)にこのような一節がある。
“私はブルース・スプリングスティーンの『ザ・リバー』をターンテーブルに載せた。(中略) ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リバー』はそういう風にして聴くべき音楽なのだ、と私はあらためて思った。A面の「インディペンデンス・デイ」が終わったら両手でレコードを持ってひっくり返し、B面の冒頭に注意深く針を落とす。そして「ハングリー・ハート」が流れ出す。もしそういうことができないようなら、『ザ・リバー』というアルバムの価値はいったいどこにあるのだろう?”
そして、“優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。”と結ばれる。さて、どのようなものが、聴くべき姿勢なのか?
様々に考えを巡らしてみてください。魅力的なイスに出会えることを期待しています。