2016/02/04

椅子の講評会2015(年度)

 年度末なので、様々な授業の講評会、発表会、審査会がおこなわれる。武蔵野大学で椅子をつくる授業をやっていて、今日はその講評会。今年度は諸々の事情が重なり、ゲスト講評者を招いての講評会の開催が危ぶまれたが、先生方にも少し無理をお願いして何とか開催の運びに。木工作家の渡邊浩幸さん、伝統文化プロデューサーの濱崎加奈子さん、写真家のキッチンミノルさんにお越し頂き、それぞれの多様な視点から講評を頂く。
 今年度は履修者14名で、それぞれ特徴のあるデザインの椅子ができあがった。今回の講評会を進めながら漠然と感じたことは、作品が発する余白ということである。
 作品はできた完成形としてのデザイン性(別の言い方をすると「見た目」ということになるが)がまずビジュアルとして捉えられるものであり、また、講評会ということで各作品の説明があるので、言語化されたデザインコンセプトというものを評価することになる(本来はこれに、機能性(簡単に言えば、座り心地)ということが最重要ファクターになるが、この点は今回はひとまず置いておくとする)。
 このコンセプトとできた作品の姿がどちらも妥当性があり、さらにきちんとリンクしていることが大切なのだが、学生の説明を聞いていて、この両者の関係性をしっかりと説明し切れてないと、聞いているこっちも少し残念な気持ちになる。で、ここまではいつものことなのだが、実はその点をしっかりと明確に説明できていても不充分なことが往々にしてある、ということである。それが何なのかなぁと講評中に考えながら、あまりに明確に説明が完結している状況も面白くないんじゃないかと思えてきた。うむ。そうなのである。それを作品のもつ余白という風に仮に定義づけてみた。それは作品を見た者が考える余地があり、様々に、ある意味、妄想を膨らませることができる可能性ということでもあると思う。まあ、映画や小説でも、こっちに考えさせるものがあった方が傑作ということが多々ある。
 で、もう少し話を進めると、その作品の持つ余白というものは、しっかりと作者がデザインの答えを持って初めて提示できる(逆に言うと、その答えを持ってないとダメということ)のである。学生の提案を聞いていて、その辺りの答えのないまま、「後は見る人が自由に考えてください。」という感じで放ったらかしにしている例が、たくさん見られる(これは、この椅子をつくる授業に限らず、設計演習の授業でも最近よく見られる)ので、「それじゃ、ダメだよね~。」ということを総括で講評させてもらう。
 でも、この、デザインのルックとデザインの言語化ということのバランスは本当に難しくて、この両者の出し具合が生む余白というものが、ある意味デザインの肝なのではないかなぁと感じた。
 終わった後は、履修学生全員を交えて40名程で大井町で打ち上げ。1年の集大成ということで、学生は一様に充実感を漂わせてくれていて嬉しい。さて、次は4日後に卒業設計の講評会が控えている。(TM)