1995年1月17日。阪神・淡路大震災から30年。
神戸出身の身ととしては、あっという間の30年とも言えるし、長い年月だったという感もある。震災当時は京都にいたので、自分は被災は免れたが、丁度前日が実家で法事があったため、夜まで神戸の実家に泊まるか、京都の下宿に帰るかを迷い、結局京都を選択した、という経緯があったのを思い出す。両親は被災したが、幸い無事だった。ただ、普通の生活を取り戻すまで、かなり大変だった様子がうかがえた。震災直後は京都から神戸にたどり着くのも半日がかりで、交通が壊滅的状況になっているなか、火事で民家が燃えているのを横目に、不通になった線路の上を歩いて実家まで物資を届けた。それからもう30年か。
その年の夏に、自分がイタリア・トリノに建築修行に旅立つことになるのだが、今考えると、よく両親が送り出してくれたなぁ、と感謝の念にたえない。
そして、そこから少しだけ時計の針を進めてみる。
1995年10月21日。日本シリーズに仰木彬監督(当時)率いるオリックス・ブルーウェーブが、野村克也監督(当時)率いるヤクルトスワローズと対決した。1995年。そう、1月17日に阪神・淡路大震災が起きた年に、神戸をフランチャイズに持つブルーウェーブがパ・リーグを制覇して臨んだシリーズだった。神戸市民の期待を一心に集めるばかりでもなく、日本中の応援を受けての決戦だった。しかし、結果は1勝4敗の完敗。完全に野村ID野球に抑え込まれるかたちでブルーウェーブは敗退した。最後の試合が終わった後、イチローはコメントした。「このような不甲斐ない試合をしながら、完全に負けてしまいました。でも、こんな僕たちのプレーを、ブーイングもせずにスタンドで応援してくれる神戸のファンをもてて、僕たちは誇りに思います。」神戸市民全員が涙した瞬間である。もちろん僕も泣いた。
それから30年が経ち、2025年1月16日、イチローが野球殿堂入りを果たした。授賞式でイチローは、当時の震災に関して触れ、「これからも、自分なりに進んでいく姿が、誰かのきっかけになったり、支えになったり、そんなふうになれたらいいな。」とコメントを残した。いや、とても、グッとくるところである。
そして、95年の話には続きがある。1996年10月24日。前年度日本シリーズで敗れた神戸ブルーウェーブは、再度パ・リーグを制して日本シリーズに登場。長嶋茂雄監督(当時)率いる巨人相手に4勝1敗で勝ち、前年の雪辱を晴らし念願の日本一に輝く。グリーンスタジアム神戸で仰木監督とイチローは宙に舞った。
「レッツ・ロック・アゲイン」。(TM)