今年度は履修者12名で、それぞれ特徴のあるデザインの椅子ができあがった。今回の講評会を進めながら漠然と感じたことは、デザインが「普通」であるとは、どういうことなのかな、と考えさせられた。通常は、あまり肯定的な意味ではない。が、その「普通」という基準、というか定義を、どの場所に設定するか、ということで、いろいろと見え方が変わってくるなぁ、ということを思い至る。それと、講評会の中で「わくわく感」というフレーズが気になった。これは、「わくわく感」の射程を、どこに、どれだけ飛ばすか、というところにあるのだろう。決して遠くに飛ばすことが良いということではないのかも、ということだ。まあ、これも当たり前のことなのだが、それがデザインを考えていく上での面白さ、ということがいえそうな気がする。
例年であれば、終わった後は、履修学生全員を交えて盛大に打上会を開催する訳だが、今年はそれも叶わないため、なかなか完結した感が湧いてこないのも正直なところ。学生には充実感を持ってくれれば嬉しい限り。さて、怒涛の年度末が続いていくのです。はい。(TM)
課題:「 中原中也、或いは、早逝の詩人の命日に完成した
街興しの名に於ける「経済戦争」により
廃墟化するこの街がテーマの
「古里守り」の映画を、なななのかに観る
手には、バーボンのオンザロックを持ちながら
そんな時に座るイス」
【課題概要】
「山の近くを走りながら、母親に似て汽車の汽笛は鳴る。夏の真昼の暑い時。」 (『山羊の歌』より)
詩人・中原中也は、1907(明治40)年に現在の山口市湯田温泉に生まれ、1937(昭和12)年に鎌倉で没した。享年30歳。その短い生涯のほとんどを詩作に費やしたと言われているが、生前に刊行した詩集は、『山羊の歌』が唯一のものとなる。
日本映画界の巨星、映画監督の大林宜彦は、1938年(昭和13)年に広島県尾道市で生まれ、2020(令和2)年に東京都世田谷区の自宅で亡くなった。監督最後の作品、『海辺の映画館-キネマの玉手箱』が公開予定だった4月10日のことだった。
大林宜彦が2000年代に撮った、映画の中に『野のなななのか』(2014年)がある。大林が「古里映画」と称して、その街の伝統や歴史を題材にした映画作品群を創っていた晩年の時期に製作され、3・11(東日本大震災)後をふまえ、脱原発、反戦のメッセージをテーマに、その前作『この空の花』(2012年)とは姉妹作品の関係になっている。この映画『野のなななのか』は、中原中也の詩を冒頭に冠して、一編の物語(約3時間の長尺だが)として描かれている。そして、この映画が完成したのは中原中也の命日(10月22日)に完成(それは全くの偶然であるらしい(大林宜彦談))している。
さて、正体不明の新型ウイルスのため、先行きはまったく読めない(課題提示時の2020年6月現在)。この状況の中、静かに、深く考えることが、大切なのだろう。この社会状況、政治の迷走、コストパフォーマンス(?)、エビデンス(??)。全て大負けだ(我々一般ピープルは)。でも映画と詩があるぞ(映画館は今のところクローズだが)。そんな時、どうするのか?
様々に考えを巡らしてみてください。魅力的なイスに出会えることを期待しています。
(水谷俊博)