2015/03/31

卒業と雑感と:2014年度

  ちょっと書くのが遅くなりましたが、武蔵野大学の水谷研のゼミ生5名も無事皆卒業。今年で9期生が卒業ということで、本当に時の流れの早さを感じる。卒業式&謝恩会も無事執り行われ、ゼミ生やプロジェクトの学生からは素敵なプレゼントをいただく。ありがとうございます。学生諸君は改めて、おめでとう。明日からの新しい世界での活躍を期待したい。
  謝恩会では、毎年恒例のパフォーマンス(何故か、毎年やることになってしまっているが。。)を、非常勤でお世話になっている建築家の大塚聡さんと今年も演じてみた。さて、これも後、何年できるかなぁ、と思ってみる。
 さて、大学では年度毎に学生の作品集(『Mu』という名前です)を制作している。その中で教員も毎年1年の総括をすることになっている。自分の担当している授業を総括するのが普通な訳ですが、僕は毎年、場違いに随想を勝手に書かせていただく。今年度分が間もなく上がってくるので、例年恒例という訳で、全文を以下に掲載します。卒業生のみなさんは懐かしさとともに、どうぞ。









2014年度 回顧・雑感 ー文字と諸々への草食化に思うー

 2014年度をふり返ってということで、最近印象に残った話を。学生との飲み会で出た話で少しびっくりしたことがあった。それは、「メイルは、もう先生から送られてくるメイルを確認する以外は、(メイル自体を)立ち上げることもない。」ということだった。最初は、学生が何を言ってるのか意味が分からなかったが、学生の年代の人達はラインやツイッターといったSNSがコミュニケーションツールの大半を占めていて、もうメイルすらしないという状況のようだ。「おぉ、そうなのかぁ。。」と一瞬たじろいでしまったが、社会のコミュニケーションのあり方も変わっていくんだなぁということを痛切に感じてしまった。
 これは、精神科医の香山リカが或るエッセイ(タイトル等は忘れてしまいました。すみません。)でSNSの課題について触れていた文章を目にする(しかも武蔵野大学の国語の入試問題の出題問題だった!)機会がり、また、ほぼそれと同じような内容を、ジャズミュージシャンの菊地成孔氏が自身のHP『第3インターナショナル』のブログで、「今後、問題化、というより安定化を受け入れなければならない、というのは「とうとう(4~5年前からずっと予想していたけど)SNSをやる人=ほとんどの日本人、を中心に、2000文字以上の文章が読めなくなってきた。」という事実ですね。」(以上、テキスト抜粋)、とコメントしていたのを見た、というのとばっちり符号している。
 で、このことは、おそらく設計演習(卒業設計、空間造形を含む)や環境プロジェクト(木でつくる)におけるデザイン行為のアウトプットに通じる所があるのではないだろうか、と思ってしまう。例えば、木でつくる課題は『1984から、30年。ダイアモンドの犬と未来世紀ブラジルと1Q84から21世紀とトータリタリスモとヴァン・ヘイレンを考察してみる。そんな時に座るイス。』という(例年、そうなのだが)非常に抽象的で、はっきり言って良く分からない課題だった。その課題の立ち位置のあり方は、はっきりと意図していることであり、その課題への答えはおそらく、分かりやすいコンセプトやきれいに納まったデザイン(造形)、ということだけでは全く不充分で、課題以上に考えさせられる内容をデザインの背景に含有することが求められている。ということになるだろう。空間造形4は僕のスタジオでは『Pink Floydのいえ』が課題だった。ピンク・フロイドが標榜したプログレッシブ・ロックはロックがロックそのものを対象化し始めた最初の動きと言え、現在の音楽(ロック)の流れをシニカルに(或いは批判的に)捉えることができるある可能性を現在をも秘めている、という側面を持っている。ある意味ピンク・フロイドが描いた批判性を超えていく必要があったのではないか、と思う。しかも、勿論、建築デザインを含めての話である。
 前衛美術家の高松次郎の展覧会が年末から年始にかけて開催されたが、そのパンフレットの冒頭に「私を強くひきつけるのは、例えば迷宮入り事件のように、未解決性、未決定性、可能性の「空虚」を充満した事物であります。」(『美術史評』創刊号より)とある。分かりやすく効率的な百数字程度のテキストデータの洪水からは、そのような世界観というものを創り上げていくことは到底無理!、ということを感じながら、僕たちもしっかりとこの先を見つめて考えて新しい視点を大切にしていかなければ、と感じる今日この頃。でもこの文章も1,600字程度で2000字に全然満たないんだよなぁ。
 戦後70年、阪神大震災後(ついでに言うとサリン事件後も)20年の2015年が始まりました。学生諸君もさまざまなところに頭を巡らせて考えて欲しい。140文字の制限は海に捨てろ。草食化なんて気取ってる場合じゃないぜ。
 
 『女のいない男たち 男のいない女たち
  何もおかしくはないぜ この道の向こうに
  Peace , Love & Understanding !!』
                               (TM)

2015/03/28

野球の季節

いよいよ始まりました。う、いてもたってもいられなく、西武球場。
 今年のオープニングゲームがバッファローズ対ライオンズということで、我がバッファローズの開幕戦シリーズ2戦目に駆けつける。
 意外と周りに話を振ってみても知らない人が多いが、西武球場の設計は建築家の池原義郎氏によるもの。外野席の人工芝斜面の観客席や、他球場と比較しても非常に開放的なドーム球場の構成がよく知られている所だが、それよりもこの球場の特徴(特異点)は球場の配置(動線)計画。観客は西武の駅を降りて球場にアプローチすると、まずは外野席に辿り着き、そこから徐々に内野席からバックネット裏へと導かれるという動線になっている。最初来た時はその構成に少し面食らったが、球場に足を運び入れた最初に外野席からの眺めを体感し、球場全体を感じることができる、というのは、なかなか野球好きにとってはツボを押さえている感があり秀逸である。
 今回はバファローズ側(ライト側)の応援外野席に陣取り、観戦。結果はバッファローズはまったく良い所がなく完封負け(しかも2試合連続。とほほ。。)。今シーズンは大量補強をおこなったので、そのせいかまだ打線がかみ合ってないような感じだ。
 と言う訳だが、とにかく春先は、優勝を信じて応援するしかない。
さて、何はともあれ、始まりました!これ以上の歓びはないとかみしめながら野球観戦の日々は続くのです。(TM)

2015/03/25

積年の邂逅

  1970年を挟んでプラスマイナス10年くらいに生まれた世代は「エア・チェック」という行為(概念?)に青春時代を勤しんでいた、というある意味原体験のようなものがある(と、思っている。同世代の方々は納得して頂けると強く信じている。)。ちなみに「エア・チェック」とはラジオ放送(主にFM)から流れる曲をカセットテープ(って、今の若い世代には分からないかも!)に録音するということで、各個人それぞれが自分オリジナルのエア・チェック・テープをつくっていた。さらにそのテープを友人間でお互い貸し合いをしたり、好きな女の子にプレゼントする、という現象がそこここで起こっていた、のである。僕もその例に漏れず、たくさんのエア・チェック・テープをつくり(う~ん、とても牧歌的な時代だなぁ)、今はそれらは家の押し入れの中に静かに眠っている。
  そんなこんなで僕は小学校から中学に上がる頃に、そんなエア・チェック・テープをつくり始めた訳だが、最初の頃はあまり何も考えずに(曲もそんなに知らないので)、ラジオから流れる曲を片っ端から録音しまくっていた。ので、最初の方のテープは収録曲はバラバラなカオス状態で、後で聴き直してみると無茶苦茶なものが多い訳だが、そんなカオスの中にも気になる曲があったりする。でも、よく分からないまま録りまくっているので、そんな曲の曲名やアーティスト名が分からないことがある。当時はネットとかはないので調べられる術は限られており、なかなか苦労するのだが年を経ていろいろな音楽に触れていくと、徐々にその曲が判明していく。そのプロセスが楽しくて、まあある意味、音楽探偵的な面白さがある。そんな中でどうしても探し当てきれない曲が1曲あり、いろいろ探してみたがどうしても分からなかった。まさに、魚の小骨が喉につかえているような感じである。その曲は、80年代初頭の王道のバラードで(今だと流行らない感じだけど)、まあ、ロック音楽史上においてはどうってことない曲なのだが、個人的には非常に気になっていた。歌を聴いている限り、シカゴかジョー・コッカ―あたりの曲なのでは、と当時両者のアルバム等をいろいろとあたってみたが、どれも空振りだった。
  そのまま、長い年月が過ぎ去り、そんなこともすっかりと忘れ去っていた。
  それが2年ほど前、何気なくラジオからその曲がかかり(確か、NHK-FM)、戦慄することになる。まさに、その曲がかかっていた。もう20数年振りの出会い、である。曲が終わり、ラジオに静かに耳を澄まし、曲のクレジットをDJが言うのを待つ。
  「ポール・アンカ」だった。何と80年代のポール・アンカ!!まったく予想できず。曲名は『朝のとばりの中で』、というのが分かり、静かに心の中でガッツ・ポーズをとる。
  ここまで分かれば、後はこっちのもんだとほくそ笑む。しかし、ここからが更なる困難を極める。まずは、サクッとアマゾンで検索。ポール・アンカなんであっさりと見つかるだろうと高をくくっていたのだが。。。検索をかけると、アルバムは存在した。そう、確かに存在した。が、もう廃番になっており、再販も既に廃番。そして、中古販売がUPされているが、その値段何と最安値で、1万円!!さすがに、、、買えない。。。そして、2年ほどの歳月が流れ去り、今に至る訳だが、その間、アルバムはアマゾンのほしい物リストに入ったまま年月が過ぎ、値段は下がることもなく、最近では「再入荷の見込みがたっていないため、注文を承っておりません」になってしまった。
 そんなこんなで、今日なのである。
 街中に所用ででかけたついでに、フラッと中古レコード屋に寄ってみて、中古レコードをちらちら見てみる。そして「P」の欄のラックをみていた時、
 何と、、、あった。。。
 思わず、「グェッ!!」と声にならない叫び声を呑み込み、レコードをとる。手がかすかに震える。レコードを手にとって手が震えるのは、12歳の時に買った、マイケル・ジャクソンの『スリラー』を手に取って以来かもしれない。
 『Walk A Fine Line』のアルバム・ジャケット。値段は何と411円。静かに、そして、心を震わせながら、カウンターへ向かう。
 まさに、年月を経た出会いの話。が、オチを迎えた。
 本当にどうでもいい話を長々とすみません。でも、本当にこんなことが、あるんだなぁ、と改めて思う。ささやかな話だが、だから人生は面白い。
 家に帰って来て、レコード針を落としながら、この文章を書いている。『朝のとばりの中で』(Hold Me 'Till The Morning Comes)はA面の2曲目。アルバムのインナースリーヴのテキスト情報を見る。バックコーラスにピーター・セテラ(シカゴの元ヴォーカリスト)がクレジットされている。 
                                                       合掌。(TM)

2015/03/14

布野修司先生最終講義

 大学時代の恩師である、布野修司先生の最終講義が滋賀県立大学で開催されるということで、彦根まで馳せ参じる。歴代の布野門下生(東洋大~京大~滋賀県大)が集結、ということになり、会場は静かな熱気につつまれていた。 布野先生の講義を聴きながら、時の流れの早さを改めて感じる。そして自分を少し見つめ直す、いい機会になった(と、思う)。
 最終講義の後に、大学のカフェテリアでパーティ。同期の面々たちと色々と話しながら、これまた懐かしくいろいろと想い出す。話をしながら改めて気づいたのは、「布野先生の授業の内容って、何故か全然覚えてないよな。いや、布野先生に限らず、大学の授業の内容ってまったく覚えてないよな!飲んでばっかりやったことしか覚えてない。何でなんや!!(爆笑)」、ということ。
 でも、大学で学んだことは身体で覚えている。のも、確かなこと。大学での学びの面白さを改めて感じながら、現在、自分が大学で展開している活動も、いろいろと考えていきたいと思えてきた。
 布野先生が4月から東京に活動の拠点を移されるとのことなので、また東京企画をやろう!と東京陣で盛り上がる。さて、それも楽しみだ。とにかく、布野先生、ありがとうございました。(TM)

2015/03/12

ジャクソン・ブラウンを観る。そして泣く。

  偉大なるロック・アーティスト達も、だいぶ年季を重ねてきて、もう今観ておかないと観れないかも、思うことが多くなってきた。
  そんな訳でオーチャード・ホールにジャクソン・ブラウンを観に行く。ジャクソン・ブラウンは日本ではちょっと地味な立ち位置のアーティストかもしれないが、個人的には思い入れがある。僕は学生時代に留年したのだが、その時期に『Late For The Sky』を繰り返し聴きながら、悶々と、非常に個人精神的に(そして無駄に。。トホホ。。。)闘っていた記憶がよみがえる。

  ライブ会場の雰囲気はものすごい特徴が2つあった。ひとつは来場者の平均年齢が異常に高いということ。40半ばの僕が一番若い部類の感じで、5060歳平均じゃないか、と思わせるくらい。そしてもう一つは圧倒的に男性比率が高い!ライブ会場で女性トイレが混まずに、男性トイレが長蛇の列な状況は初めて見たかも。もう、こうなるとオヤジ臭いのを通り越して、ジイサン臭い域まで達している。う~む、いい感じにすさまじい。
  さて、ライブの内容は素晴らしいに尽きる。ニュー・アルバムからの楽曲の比率が高かったようだが(ニュー・アルバムはアナログレコードを昨年末に注文しているんだが、まだ手元に届かない。。。いやはや。)、各時代万遍なくプレイしてくれた。充実の何と3時間。
  基本的に観客は着席して聴く状況だが(みなさんご高齢なので)、アンコール前の本編ラストが『Doctor My Eyes』から『Running On Empty(孤独のランナー)』の流れで展開し、ここで最高潮に達する。その時、今まで座っていたオヤジ(&ジジイ)たちが、前列の方から立ちあがり始める。しかも、一気に立ちあがるのではなく、徐々に、あたかも筍がムクムクと生えてくるように、前からゾワァーっと時間差で人々が立ちあがっていく様子は、見ていて、本当に目頭が熱くなり、そして文字通り熱いものが込み上げてきた。なぜか、日本も捨てたもんじゃない!と静かに深く感動。
  客席の盛り上がりが非常に素晴らしかったようで、ジャクソン・ブラウンもノッテおり、アンコールも2回登場。オヤジ(ジジイ)パワーのすごさをあらためて感じさせられた。
  人はさまざまな場面で元気をもらうが、本当にそんな時間の素晴らしさを感じる。311から4年が過ぎた今、渋谷の夜に思う。(TM)

2015/03/04

ダイナー

  この所、独りで長距離を移動することが多かったので、最近には珍しく本を読む時間がある程度確保できた。という訳でもないが、買ってからずっと本棚に置き去りにされていた、平山夢明著『ダイナー』(文庫本、500頁以上もある小説なのでなかなか手が伸びなかった)を一気に読了。ほんとに一気に読める小説も久しぶりの体験。
  作者自身が、「「読者に対してグゥの音も出ないほど徹底的に小説世界に引き刷り込み、窒息させるほど楽しませようとしている物語」を「徹底的にブン回しでやる」」(本書あとがきより)と述べているように、読んでいて目眩がするような体験ができる。もう、この歳になってくるとあまりモノに感じなくなってきているのだが(いい意味でも悪い意味でも)、小説の面白さをグイグイ感じさせられる大傑作である。
  内容自体が前衛的であったり、文体等の技巧が芸術的であったりする訳ではなく、あくまでもど真ん中のストレートで攻めて攻めて攻めまくる感じで、荒削りで骨太な文章が、理性的な表現(構成)により怒涛に連続している。この理性的なところが多分重要で、作家の福澤徹三が本書巻末に解説しているように、「理性的であるからこそ、常識から乖離した世界を活写できるのであって、主観に溺れては、ただグロテスクな表現だけで終わってしまう。」のである。そして何よりエンターテイメント感の塊である。
  こんな感じの建築がつくれたら、さぞかし面白いだろうなぁと感じてしまった。なかなか、建築ではこんな感じはだせないんだよなぁ。うむ。(TM)