2016/02/12

現場見学@武蔵野

  4年生は卒業間近になってきたが、現場見学会を開催。設計監修に携わっている武蔵野クリーンセンターの現場見学会。
 新工場棟も躯体がだいぶ建ち上がり、建築のだいたいの姿が分かるようになってきた。現場もかなり錯綜する段階なので、昼休みを活用して見学をさせていただく。学生も話だけを聞いていたので、具体的に建築を体感できたようだ。ただのクリーンセンター(ごみ焼却工場)ではない姿は学生にも伝わった様子。現場見学の後に現在稼働中のセンターへも移動し、現在の様子も見学。来春には新施設が稼働しだすので、完成後も見に来て欲しい。

  同日夜に現ゼミ生に来年度水谷研に配属のメンバーを一同に交え、10期生、11期生の引継会を西荻窪のささら亭(我が常居酒屋)にて開催。いよいよ来年度へ向けて始動しだす。(TM)

2016/02/07

卒業設計公開審査会2015(年度)

 武蔵野大学の卒業設計の公開審査会。
 1/19の学内審査を経て、今年度は9名が最終審査で発表をおこなう。個人的には今年度は昨年度に引き続き司会の役を仰せつかったので、なかなか大変な一日になった。
 1300にスタートし学生の発表に続き、公開審査会に突入。昨年度と大きく変わった点は審査員の先生方の数が11名に増えたことで、これがなかななか審査会の運営上の難易度を上げている。
 最初に投票をおこない議論に入る。9作品から6作品まで絞り込むことができたが、ここからはさまざまな評価軸と作品解釈が入り乱れる状態になり(って文章で書くと平坦な感じになるが、山あり谷ありで全体で6時間超えの審査会になる)、作品を絞り込むことができずに最終の決選投票へ舵を切る。例年だと、だいたいの結果が読めるのだが、今回は結果がまったく読めないというような状況。
 開票の結果、1位と2位は1票差。3位から6位が2票差にひしめく大混戦という結果になった。学生の皆さんはお疲れさまでした。
 水谷研からは、ユッケが最初のふるい落としで涙をのみ、サワディとカオリが最終投票で同率5位で次点(武蔵野大学は4位までが優秀賞なので)ということで涙をのんだが、キクが3位、チャンが堂々の最優秀という結果になった。重ねてになるが本当にお疲れさまでした。審査(ついでに司会も)する側もどっぷりと疲れました。
 終わった後、全体の懇親会をおこない、学生も(ついでに教員も)一応に「終わった感」をにじませながら、学生の作品をツマにいろいろと話をする。
 個人的な感想としては、全体的にはそこそこ面白かったと思う。最後の講評では「飛び抜けた案がなかったのが、少し残念」的な話をしたが、飛び抜けた案というのが往々にして明快過ぎて奥深さがない、ということもあるので、まあ、良かったのではないかと独りで後程、納得させることとする。
 近年の傾向として、機能を限定しない(ある意味ランドスケープ的な)提案が多く見られるような気もするが、自分たちの時代の卒業設計も(機能的に)良く分からない建築の作品ばかりだったような気がするので、まあそれも今に始まったことでもないんだろうなあぁ、と思い起してみる。
全てのプログラムが終わった後で、研究室のゼミ生と新宿に繰り出し再打ち上げ。卒業設計は卒業後も自身の語り草になるので大切にして欲しい、というようなことをメッセージとして伝えて、長い一日が終わる。さて、いよいよ年度末に突入。(TM)

2016/02/05

Septemberは流れ続ける

 
 最近、こういった話が続いてしまうが、モーリス・ホワイトが亡くなりました。
 ディスコ時代の本当に最後をオンタイムで体験した世代ですので、やはり大きな存在でした。僕らの世代にとってはソロの『I Need You』は至上最高の必殺ヴァラードの一つであったと言っても過言ではないでしょう。
 レコード棚から、EW&Fの『太陽神』を引っぱり出してきて聴く。
 ご冥福をお祈りします。(TM)

2016/02/04

椅子の講評会2015(年度)

 年度末なので、様々な授業の講評会、発表会、審査会がおこなわれる。武蔵野大学で椅子をつくる授業をやっていて、今日はその講評会。今年度は諸々の事情が重なり、ゲスト講評者を招いての講評会の開催が危ぶまれたが、先生方にも少し無理をお願いして何とか開催の運びに。木工作家の渡邊浩幸さん、伝統文化プロデューサーの濱崎加奈子さん、写真家のキッチンミノルさんにお越し頂き、それぞれの多様な視点から講評を頂く。
 今年度は履修者14名で、それぞれ特徴のあるデザインの椅子ができあがった。今回の講評会を進めながら漠然と感じたことは、作品が発する余白ということである。
 作品はできた完成形としてのデザイン性(別の言い方をすると「見た目」ということになるが)がまずビジュアルとして捉えられるものであり、また、講評会ということで各作品の説明があるので、言語化されたデザインコンセプトというものを評価することになる(本来はこれに、機能性(簡単に言えば、座り心地)ということが最重要ファクターになるが、この点は今回はひとまず置いておくとする)。
 このコンセプトとできた作品の姿がどちらも妥当性があり、さらにきちんとリンクしていることが大切なのだが、学生の説明を聞いていて、この両者の関係性をしっかりと説明し切れてないと、聞いているこっちも少し残念な気持ちになる。で、ここまではいつものことなのだが、実はその点をしっかりと明確に説明できていても不充分なことが往々にしてある、ということである。それが何なのかなぁと講評中に考えながら、あまりに明確に説明が完結している状況も面白くないんじゃないかと思えてきた。うむ。そうなのである。それを作品のもつ余白という風に仮に定義づけてみた。それは作品を見た者が考える余地があり、様々に、ある意味、妄想を膨らませることができる可能性ということでもあると思う。まあ、映画や小説でも、こっちに考えさせるものがあった方が傑作ということが多々ある。
 で、もう少し話を進めると、その作品の持つ余白というものは、しっかりと作者がデザインの答えを持って初めて提示できる(逆に言うと、その答えを持ってないとダメということ)のである。学生の提案を聞いていて、その辺りの答えのないまま、「後は見る人が自由に考えてください。」という感じで放ったらかしにしている例が、たくさん見られる(これは、この椅子をつくる授業に限らず、設計演習の授業でも最近よく見られる)ので、「それじゃ、ダメだよね~。」ということを総括で講評させてもらう。
 でも、この、デザインのルックとデザインの言語化ということのバランスは本当に難しくて、この両者の出し具合が生む余白というものが、ある意味デザインの肝なのではないかなぁと感じた。
 終わった後は、履修学生全員を交えて40名程で大井町で打ち上げ。1年の集大成ということで、学生は一様に充実感を漂わせてくれていて嬉しい。さて、次は4日後に卒業設計の講評会が控えている。(TM)