2014/06/25

恋する演劇@有明

 ちょっと数週間前の話しに遡るが、武蔵野大学で木工制作演習の授業も担当していて(授業名:環境プロジェクト特別演習)、その授業内で例年、何故か、演劇をおこなうことを学生に課している。なぜ、演劇をやるのか(学生にとっては、やらされるのか、ということだが)?全くもって理由はない。ので、学生はまったく意味も分からないまま、そして見ているこちらも深い意味も持たないまま、劇が執り行われるので不思議な可笑し味があって、これがとてもいい。基本的にキャンパス周辺も含めて、大学に帰って来られる範囲で、ということなので野外に飛び出すグループもある。
 今年度は初めて授業が有明キャンパス拠点になったので、今までにない舞台背景が用意されていることになるので、こちらとしても楽しみだ。訳が分からないままながら、学生の演じるクオリティも年々向上しているようで、観ているこちらも興味深かった。
 劇をおこなうという行為は(あくまでド素人演技だが)、身体性というものと切り離せないものがあり、それを体感することによる様々な意味でのコミュニケーション行為というものは、現在のネットやSNSの範囲でしか繋がらないように思える状況を打ち破るきっかけを有していると思う。そして、実際演じる行為にたどり着くまで、みんなでシナリオを考えたり、舞台セットのようなもの(小道具)を準備したりする行為が付随する訳で、このプロセスも非常に身体性ということも含めた意味があるものだと思っている。
 そして、その先に空間というものがあり、ひいては環境(スケールの大小を含めた)というものがあり、それを直に体感できるものではないかと思う。「だからこそ非常に意味があるのだよ、学生諸君!」と言いたいところだが、そこの所は、学生がいつの日か思い当たってくれたらいいなぁ、と思っている。まあ、10年先とか20年先でもいいんだけどね。
さて、お台場のスケール感の均衡がとれなくなるような場とも相まって、劇は非常にスペーシーな展開を魅せてくれていた。有明の地の魅力も、もしかしたら奥深いのかもしれない。(TM

2014/06/19

辰巳団地


 武蔵野大学の3年生の設計演習の後半の課題が始まっている。
 今年度から課題を刷新し、まずは敷地が変わった。
 そして、その敷地が江東区の辰巳団地の一角という、非常にディープな場所で課題設定をおこなっている。
 さて、このサイトがものすごく面白い。
 東雲や豊洲といった、超巨大なマンション開発地帯に接する、文字通り、陸の孤島のような状況になっていて、特に東雲側から橋を渡った瞬間、街のスケール感が激変し、そしてそこで生活している人々の様相が一変する。まさに昭和。その変化は鳥肌ものである。
 この感じ。どこかで感じたなぁ、と思いながら、かれこれ20年以上前に、大阪の新世界を同級生の修士論文の調査で歩いた際にも、少し似た空気感をまとっていた気がしたのを思い出した。こういう感覚が本当に心地よい。
 僕の祖父母が昔、甲子園の団地に住んでいたということもあり、個人的に団地の光景というものは原風景のようなものになっている。一見うらぶれて何もなさそうに見えるかもしれないが、街のイメージの源泉になるものは、あまりに豊潤に確かに存在する。
 そして、近い将来この地がどのようになってしまうのか、ということにも思いを馳せる。
さて、この地でどのような建築の姿が描けるのか?提出は1月後。楽しみだ。(TM

2014/06/17

人気のない公園と人の賑わいに思う


  この週末、かなり暑くなったが娘と善福寺公園に出かける。  いつもは人でにぎわっている公園に気味が悪いくらい全然人がいなく、「暑すぎるからかなぁ。。」と呑気に考えていたが、丁度、サッカーW杯の日本戦だった、ことに気づく。

 「お~、すごい。。。こんなに人いないのね。。。」と改めてびっくり。
 全般的にスポーツは好きなのでW杯ももちろん興味はあるのだが、それほど熱狂的にサッカーを追いかけているわけでもないし、何分テレビがない生活を送っているので、世間の盛り上がりに比べあまりピンときていない。それにしても、この一億総人口サッカー観るっていうのはすごいですね。何か観てないと非国民扱いされているみたいで嫌な雰囲気である。
 それにしても人がいない公園はノビノビとしていて気持ちいい。
 近年、学生の設計課題をみていて、だいたい地域活性化とか、賑わいとかを紋切り型にテーマにあげる例が多いので、それも不思議な感じがしている。人が多いことって、そんなに重要なことなのかねっ、て。人のいないノビノビとできる公園、人がまばらでゆったりとした映画館、ビールをのんびりと飲みながら観れる野球場。どれも素晴らしい、と思うんだけど。結局、経済原理だけで話をするから、人で賑わいつくらなきゃ、という強迫観念にとらわれているような気がするな。まあ、極論だけども。
 さて、個人的に一番最近サッカーの試合を生でみたというのは、15年前くらいの雨の国立。高校サッカーの決勝。あの国立に観客数は数えられるくらいの少なさという風情だった。寒さにブルブル震えながら、ワインの瓶片手にほのかに体内をポカポカさせながら気持ちよく試合を観ていたのを思い出す。あの時の優勝チームには今回のサプライズ選出で話題の大久保がいた。時は流れる。
そんなことを思いながら、週末の人気のない公園を堪能する。(TM

2014/06/16

追悼

  アメリカのディスクジョッキーのケイシー・ケイスンンが6/15にワシントンにて亡くなった。享年82歳。『American Top 40』のDJとして、我々の世代には(少なくとも僕にとっては)、無くてはならない存在だった。
  番組のエンディングの言葉、「Keep your feet on the ground. And,keep reaching for the star」は心にしみる。
  ちなみに、現在も70年代から80年代にかけての放送は、毎週再放送が米FMで聴け(日本では主に日曜にOn Timeで。1週遅れでラジオ日本で(DJ矢口清治さんで!)週末の夜聴くことができる。)、かれこれ30年程前、ラジオに文字通りかじりつきながら、雑音だらけの中から東京の放送を神戸で、何とかして神戸で聴いていた日々を想い出す。
日本版放送の第1回目(当時のDJは湯川れい子さん)で1位だったマイケル・ジャクソンの『ベン』を聴く。
ご冥福をお祈りします。(TM)

2014/06/13

女のいない男たち

 あまり巷では話題になっていないようだが(そんなことないのかなぁ?まあ、前作が『1Q84』であまりにすごい反響だったからかもしれないが)、村上春樹氏の『女のいない男たち』を読了。何度もブログで書かせてもらっているが、同時代に生きて作品をオンタイムで読める幸せは、いつ読んでも感じることである。短編集は『東京奇譚集』から10年ぶりということになるので、本当に時の流れを実感してしまう。
 僕にとって村上春樹は人生に絶大な影響を受けた(ている)程の大好きな作家なのだが、村上春樹は読者からは好き嫌いの分かれる作家であり、嫌う人の最大の理由は、「よく分からない」という点にあるのだ、と勝手に思っている。
 そう、よく分からないのである。内容がよく分からないということもあるのだが、それと呼応して、その良く分からないものが良く売れる、というのがアンチ春樹には、まったくよく分からない現象のようである。
 文章が平易なのに内容がよく分からない、という甘美なパラドクスを有している点は本当に魅力であり、その面白さが分からないと、そのよさは本当に分からないと思う。そして、村上春樹の素晴らしさは、そのよく分からないことが、いろいろな隙間から、なんとなく(言葉やそれこそコンテクストが)入ってきて、ささやかに沁み入るやさしさがある、ということころにあるのでは、と思っている。
 そして、そんな建築が、いいのではないか!、つくりたい!!、とまた無理やり建築の話に揺り動かしてしまう思考回路を内省しつつ、女のいない男たちの意味に思いを馳せてみる。
 安直に考えると、男はいつも孤独なのだなぁ、と思うのだが、女もいつも孤独なのかもしれないな。若い頃はこの孤独感が非常に人生の原動力になっていた訳だが、歳をとってくるとこの孤独感は非常に重くのしかかって(いい意味でも、悪い意味でも)くるのである。そんな空気感が、この本からは伝わってくる。うむ。時はあまりにも早く流れる。ちなみに2014年度の水谷研のテーマは(毎年テーマを設定している訳です。はい。)、
『女のいない男たち 男のいない女たち
何もおかしくはないぜ この道の向こうに
Peace,Love&and Understanding
!!』
です。
 そんなことを、自宅の足元にコンクリートの隙間を引き裂いて、ひっそりと咲きほこるドクダミの花を見て想う。梅雨&夏の季節ははじまっている。(TM)

2014/06/11

フォーラムビルディングをみる

フォーラムビルディングの中にオフィスを構える企業の方にお願いをして、内部を拝見させていただく機会があり、学生20名程度を連れてお邪魔する。就業時間を終えてからの時間帯のため、夜の青山の街を外に見ながら実際に使われているオフィス空間を見れるのは非常に刺激的だ。


 この建築は構造体のシンプルな構成と細さ、そしていわゆる現代におけるユニバーサルなかたちを構成する詳細の質の高さ、というところが圧倒的で、まさに設計者の谷口吉生さんの面目躍如といったところ。特にペリメーター沿いの空調吹き出し口などのディテールは3mmm,5mmといったオーダーで構成されており、非常に素晴らしい。
 デザインの抽象化、ミニマム化といったようなメインストリームは、最近の流行りの建築ではあまり見受けられないが、建築の大切な要素に触れられる建築に、また触れるというのは大切なことだなぁ、と改めて感じ入る。学生はよく分からなかったかもしれないが、一生懸命窓際をみんなで見ている様は、なかなか微笑ましくてう、そして、何となくこっちもうれしい限りである。(TM)

2014/06/09

武蔵野クリーンセンターをみる

 武蔵野市のクリーンセンターの見学に水谷研4年生のメンバーを連れて訪問させていただく。非常に近い存在でありながら(しかも何度も足を運んでいるのにもかかわらず)、内部を一度も見学させていただいたことがなかったので、まさに改めて、という感じである。
 ゴミ処理場の建築というのは基本的にプラントがあり、ただそれを覆っているだけの建屋、という建築がほとんどで、建築のデザイン云々ということはほとんどない。
 しかし、このいわゆるアノニマスな建築にも空間の神秘性というものは随所に内在している。日中のメインの操業がほぼ終わっている時間帯ということもあり、特に人影のないプラットフォームの空間は圧倒的な存在感を有している。これは、建築の持つ、大きなスケール感、仮設性(ここでは建屋のもつハードとしての特性ともいえるか)、ゴミ処理いうプログラム、などが一体となって醸し出しているいい意味での退廃性(空間のもつ空気感といってもいいだろう)といえるかもなぁ、と感じる。退廃性と美は表裏一体のものであり、まさにエロスとタナトス、ということなのだが、意外とこんな空間がアート性への扉を開くのかもしれない、と夢想してみたくなる。
さて、この建築も数年後には新たな施設へ生れ変る企画が進んでいる。どう展開をしていくのか楽しみな気分が高まっていく。(TM)