2013/08/31

圧倒的なスケール感と恍惚の気持ちの相関性

所用があり、北海道の札幌まで赴く。
札幌は15年振りだろうか。
東京のバカ暑さとはうって変わっての涼しさ。。。というか、ちょっと寒い。
なぜか僕が札幌に来る時は、天気が悪く、それがなかなかさびしさ、というか切ない気分を助長してくれてしまう。15年前もそんな感じだったな、とふと想い出す。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』のような感じ。
所用のついでに建築をいくつか見てまわる。
札幌ドーム。今更だが、実際に見ると素晴らしい。久しぶりに建築をみて感動した。ちょっと本質とはズレてしまうかもしれないが、ドームの建築そのものもいいのだが、それよりもドームに隣接してある移動サッカーフィールドを備えた屋外の広場の景観が圧倒 
的だ。本当に大らかなスケール、そしてすり鉢状を形成するの地形の全体のアンジュレーションと地表面の勾配設定のあり方など、ランドスケープの神髄はこんな感じなんじゃないか、と思わされた。
その後、モエレ沼公園に。これは、、、すごすぎる。人間の領域を超えているような気がする。でも、実際人間がつくってるんだけど。雨の中のせいか、そんな感覚にとらわれつつ、建築をつくることのちっぽけさ(もちろんいい意味での、ということす。はい。)を痛感してしまう。
札幌市街地に戻り、夜、ギレルモ・デル・トロ監督の『パシフィック・リム』を観る。これは、、、すさまじかった。これでとどめをさされる。映画は、日本の昔の巨大ロボットアニメを実写化した、ある意味B級ものだが、その都市や建築の映像の描き方はすさまじく圧巻だった。それらが、怪獣や巨大ロボットに粉砕されていく。その映像の洪水は恍惚とさせられてしまう。
いろいろとスケール感を激しくゆさぶられ、札幌を堪能する。(TM)

2013/08/20

アーツ前橋掲載



  夏休み中もありUPが遅くなりました。
雑誌、『日経アーキテクチュア』の8/10号にアーツ前橋の記事を掲載いただきました。
なんと表紙に採用いただいています。
関係者一同非常にうれしい限りです。
掲載いただいた特集も現在の公共建築の旬なトピックですので、ぜひご覧ください。

2013/08/01

住居アメニティ論終演



















本日9年間続いた武蔵野大学の授業『住居アメニティ論』が、その9年間の歴史に幕を下ろした。先日(7/16)のブログの続きになるが、今シーズンで終わるトピックが、何故か続いている。住居アメニティ論という授業は授業名が非常に抽象的な所から分かるように、非常に何をやっていいかよく分からない授業な訳だが、逆に言えば、何やってもいい授業、という風に開き直ってこの9年間やってきた。武蔵野大学の授業に建築計画学の範囲の授業がないので、その辺りをさらっとフォローしながらも、後は、本当に自分の思うがままに、アメニティという言葉に無理やり関連付けながら、どちらかと言うと建築以外の分野からもいろいろな視点を交えながら建築の話をしてきた。。。つもりである。
朝一番の授業(9:00スタート)のためか、ここ数年は10名前後の履修者だったが(4年くらい前までは50名程度が履修していたのですが。。。)、履修した学生諸君には少しでも刺激を与えられていれば、と切に思う次第である。今年度はある回の授業で、デヴィット・リンチの『ロスト・ハイウェイ』の一部を見せたのだが(この映画の中で、主人公のビル・プルマン演じるジャズ・ミュージシャンの男が、自宅の暗く長く続く廊下(本当に真っ暗な空間)に入ると人格が変わってしまう、という設定なのだが、その廊下の空間構成とそこを通過する人の精神的構造が何らかのかたちでコネクトする、というあたりが非常に住居のアメニティ的な側面を語る上で面白いのです。)、ある学生が授業後に、「あまりの映像の有様に、ものすごく、強烈に、気分が悪くなった。。。!」、という感想を述べていた。まあ、朝の9:00からデヴィット・リンチを観るべきではない、というのがそこから導き出される考察結果になるのかもしれない、が、でも、そう感じるということは、その学生本人にとってはおそらく学生時代の授業の中でも忘れられない記憶(?想い出。且つ、悪しき)のひとつとなるのだろうから、そうなったとしたら、やはり僕としては授業をやった意味があったなぁ、と思う次第である。
そんなこんなで、またひとつの時代が終わってしまった。
授業の最後に、ジャミロクワイとフー・ファイターズとレッチリのショートフィルム(監督はそれぞれ、ジョナサン・グレイザー、ミシェル・ゴンドレー、マーク・ロマネック)を朝一ながら、爆音で流して終わる。
これまで9年間授業を履修した歴代の学生さんたちは、おつかれさまでした。
もう、デヴィット・リンチが朝の教室で流れることはない。(TM)